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長野原城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1244.JPG←主郭群の段状の平場群
(2020年12月訪城)
 長野原城は、吾妻地方を手中にした武田氏の支城である。元々はこの地方の豪族羽尾氏の持ち城であったと伝えられる。1562年、岩櫃城の斎藤憲広を降した武田信玄は、長野原城に真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を入れて守らせたが、翌63年9月、憲広は俊綱を倒して城を奪い、羽尾・海野兄弟を入れた。信玄は直ちに兵を発して岩櫃城を攻略し、長野原などを湯本善大夫に与えた。善大夫は1575年の長篠合戦で重傷を負って死去し、甥の三郎右衛門が継いだ。三郎右衛門は真田氏に属し、後に同心衆31人を付され、合わせて630貫余を知行したと言う。

 長野原城は、吾妻川と白砂川に挟まれた東西に長い山稜上に築かれている。城の中心部は西の標高750mの峰にあり、そこから東の尾根伝いに秋葉山出丸・第2出丸・箱岩出丸・第4出丸・天狗岩物見台と連珠状に続いている。南麓から登道があり、瑠璃光薬師堂脇から登ると箱岩と言う巨岩の下を抜けて腰曲輪を経由し、秋葉山出丸と第2出丸の間の尾根上に至る。この道は途中、薬師堂から箱岩までの間が立入禁止となっているが、箱岩の下だけちょっと荒れている程度で、実際にはそんなに危険な状態ではない(但しこの道を使う時は、あくまで自己責任でお願いします)。
 東尾根にある各出丸には腰曲輪が付随し、普請の痕跡が見られる。特に秋葉山出丸には武者溜りの小郭があり、南支尾根の先にも舌状曲輪と腰曲輪群が築かれている。尚、東の天狗岩物見台まで行くには、箱岩出丸の先で岩の絶壁を降りる必要があるので、岩場の登り降りに自信のない人は、箱岩出丸から先は止めた方が良い。
 秋葉山出丸の西尾根を登っていくと主城部で、主郭群最上段の櫓台に至る。この櫓台は、削り残しの尾根がそのまま西に伸びていて、主郭背後を防衛する高土塁を形成している。主郭群は、北西斜面に広大な曲輪群を段状に3段築いている。上段の主郭西には枡形虎口が構築されていて、下の曲輪に通じている。主郭群の西側には、長い竪堀を挟んで二ノ郭群が築かれている。この竪堀によって、城の中心部は一城別郭の構造となっている。二ノ郭群は、主郭群より小さな曲輪が段状に5段程築かれ、最上部は削り残し尾根による土塁となっている。二ノ郭の南には舌状曲輪が2段築かれている。二ノ郭群の西側は広い谷戸地形になっている。この西端部に大手防衛の曲輪が築かれ、その東側に谷戸下方を防衛する土塁と腰曲輪、更にその下方に「く」の字に大きく曲がった長い横堀とその前面を防衛する堡塁が築かれている。この谷下方の土塁の脇には木戸口があり、形状が明瞭なのだが、何故か縄張図には描かれていない。主城部の更に西の尾根が大手とされ、前述の大手防衛の曲輪の下に、二重堀切が構築されている。この二重堀切は右手だけ三重っぽい形に見える。
 以上が長野原城の構造で、主城部の広い曲輪群は、この城がこの地域の中心的城郭であることを物語っている。
二ノ郭西の舌状曲輪群→DSCN1342.JPG
DSCN1290.JPG←谷戸を防衛する土塁
谷戸下方の横堀→DSCN1296.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554568/138.639253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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