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羽根尾城(群馬県長野原町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN1392.JPG←主郭から見た堀切と二ノ郭
(2020年12月訪城)
 羽根尾城は、信濃国滋野氏の庶流とされる羽尾幸全入道の居城である。羽尾幸全は、舎弟海野長門守幸光・能登守輝幸と共に、この城を根拠地として勢威を振るい、草津の湯本氏・嬬恋の西窪・鎌原両氏等と並んで吾妻を舞台に活躍した。1562年、岩櫃城の斎藤憲広を降した武田信玄は、長野原城に真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を入れて守らせたが、翌63年9月の長野原合戦では、海野兄弟は斎藤方の大将として長野原城を攻略した。信玄は直ちに兵を発して岩櫃城を攻略し、羽尾氏も真田幸隆に服属した。1565年に斎藤氏が滅亡すると、信玄は幸隆を吾妻郡代に任じ、幸隆は翌66年に戦功のあった海野兄弟を岩櫃城代とした。しかし1581年、真田昌幸は、海野兄弟に対する誤解から海野兄弟を急襲し、幸光は岩櫃城で自刃し、輝幸は迦葉山へ退いたが追手に敗れて自刃した。その後1583年、昌幸の命により羽根尾城には湯本三郎右衛門が在城したと言う。

 羽根尾城は、吾妻川北岸の標高758m、比高100m程の山上に築かれている。北の西吾妻福祉病院の裏手から車道が延びており、城のすぐ近くまで車で行くことができる。北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の縄張りとなっている。主郭の背後には堀切が穿たれ、その上に主郭がそびえている。主郭は長円形の小さな曲輪で、外周を土塁で防御しているが、冬場でも灌木の多い薮になっている。また主郭の東辺には鉄塔が建っていて、遺構が一部損壊を受けている。主郭の東側には腰曲輪が置かれている。主郭南東には虎口があり、主郭前面の堀切を越えて二ノ郭に通じている。二ノ郭は、中央に土塁を走らせた狭小な曲輪で、ほとんど兵の居場所がない。二ノ郭の南には傾斜地を挟んで三ノ郭があるが、ここも大した面積はない。この他、主郭・二ノ郭の西側には竪堀が1本ずつ落ちている。この他、羽根尾城の南西麓には、平坦な高台があり、羽尾氏の居館があったらしい。ここには現在海野幸光の墓が残っている。羽根尾城はその規模から考えて、あくまで有事の際の詰城の位置付けであったと考えられる。
主郭背後の堀切→DSCN1374.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553896/138.607539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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