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岩殿城(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3488.JPG←馬場曲輪と富士山
(2021年2月訪城)
 岩殿城は、甲斐東部を守る武田氏の重要な支城であり、岩櫃城久能山城と並ぶ武田三堅城の一に数えられる。元々岩殿山には9世紀の末に、天台宗の岩殿山円通寺が開創されたと伝えられる。10世紀初めには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道場として栄えた。16世紀に入ると武田信虎が甲斐を統一し戦国大名化していく中で、相模の北条氏に対する防衛と、独立性の強かった小山田氏に対する目付的な任務を帯びて、武田氏直轄の重要な支城として岩殿山が城砦化されたと考えられている。1581年には武田勝頼の命で、荻原豊前守の寄子・同心が岩殿城の在番と普請を命ぜられている。1582年、織田信長による武田征伐が開始されると、武田氏の勢力は各地で総崩れとなり、諏訪上原城から新府城に撤退した武田勝頼は、小山田信茂の進言を容れて岩殿城を目指して退去した。しかし勝頼一行が笹子峠まで来たところで、信茂は勝頼を裏切って道を塞ぎ、進退窮まった勝頼は天目山で自刃し、甲斐源氏の名門武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後の武田遺領は信長の支配下に入ったが、勝頼滅亡のわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、甲斐・信濃を支配していた織田氏の勢力は瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発した。この時、北条氏は津久井城主内藤綱秀を甲斐国都留郡に派遣し、岩殿城を接収して守備させた。天正壬午の乱は、北条・徳川両勢力が長期対陣の末に徳川方の優勢下で和睦した。甲斐を手中に収めた徳川家康は、鳥居元忠に都留郡を与え、元忠は最初岩殿城に入り、後に谷村城に移った。以後、岩殿城は歴史に現れなくなり、江戸時代初期には廃城になったと見られる。

 岩殿城は、中央高速のすぐ北側にそびえる標高634mの峻険な岩殿山に築かれている。一枚岩の大きな岩盤(鏡岩)がむき出しになった目立つ山で、その上に城が築かれている。散策路が何本か整備されているが、近年の崩落などで南中腹の丸山公園からのルートは通行禁止になっているので、北側の畑倉登山口から登城した。このルートは城の搦手だったらしく、物見台のある馬蹄形曲輪と、途中の尾根にも段曲輪数段が見られる。このルートを登り切ると山頂の主郭に至る。主郭は東西に細長い曲輪で、西側に烽火台とされる土壇があり、中心部にはテレビの電波塔が建てられている。主郭の東端には堀切2本と小郭がある。城内では堀切はここにしかないが、城の周りが絶壁で囲まれているので、堀切を必要としなかったのだろう。主郭から西に降っていくと、蔵屋敷(二ノ郭?)などの曲輪を経由し、城内で最も広い馬場曲輪に至る。馬場曲輪から上の蔵屋敷に通じる虎口は小規模な枡形を形成している。馬場曲輪は、広いが郭内に起伏があり、あまり大きな建物はなかっただろう。馬場曲輪から南東に降ると亀ヶ池・馬洗池という井戸がある。円通寺時代から使われた水の手だったのだろう。馬場曲輪の西は高台となっており、そそらく往時の櫓台で、乃木希典の石碑が建っている。更にそこから西には細尾根上の小郭と帯曲輪があり、その先に西の物見台とされる曲輪がある。その南に大岩で囲まれた細い通路の揚城戸と番所の小平場がある。この他、南中腹の丸山公園の部分も大手の曲輪だった様である。以上が岩殿城の遺構で、縄張りにはあまり技巧性はなく、山自体の持つ峻険さだけが武器の城だった様である。
主郭東側の堀切→DSCN3459.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.621678/138.949875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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