穴山氏館(山梨県韮崎市) [古城めぐり(山梨)]
←土塁らしい土盛り
(2021年2月訪城)
穴山氏館は、武田氏の一族穴山氏の居館と伝えられる。穴山氏は、14世紀の中頃に武田信武の5男義武がこの地に分封されて穴山氏を称した。15世紀前半に南部氏の旧領であった河内地方に進出し、下山に居館を移した。『甲斐国志』によれば、次第窪・重久の間に桟敷場と呼ばれる地があり、そこが穴山氏の発祥の地であるとされる。
穴山氏館は、七里岩台地の上の丘陵の一角にあったらしい。丘陵の西側登り口に標柱・解説板があり、そこから北東に向かって小道が伸びている。小道の先を行くと、『甲斐の山城と館』に記載されている土塁が確認できる。丘陵の北東辺縁部にも土塁らしいものが見られる。また、前述の小道は、丘陵東側で堀状になっている。これらが遺構であるかどうかは即断できないが、一応ここでは館跡の痕跡としておく。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.765310/138.418272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2021年2月訪城)
穴山氏館は、武田氏の一族穴山氏の居館と伝えられる。穴山氏は、14世紀の中頃に武田信武の5男義武がこの地に分封されて穴山氏を称した。15世紀前半に南部氏の旧領であった河内地方に進出し、下山に居館を移した。『甲斐国志』によれば、次第窪・重久の間に桟敷場と呼ばれる地があり、そこが穴山氏の発祥の地であるとされる。
穴山氏館は、七里岩台地の上の丘陵の一角にあったらしい。丘陵の西側登り口に標柱・解説板があり、そこから北東に向かって小道が伸びている。小道の先を行くと、『甲斐の山城と館』に記載されている土塁が確認できる。丘陵の北東辺縁部にも土塁らしいものが見られる。また、前述の小道は、丘陵東側で堀状になっている。これらが遺構であるかどうかは即断できないが、一応ここでは館跡の痕跡としておく。
堀状の小道→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.765310/138.418272/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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