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須沢城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5094.JPG←城跡とされる広い緩斜面
(2021年2月訪城)
 須沢城は、1350年に生起した室町幕府の内乱「観応の擾乱」の際に、高師直の一族高播磨守師冬が滅亡した城である。城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる逸見孫六入道と言われている。これより先、足利尊氏の次男で幼少の基氏が関東の押さえとして鎌倉府に置かれ、その執事として尊氏党の高師冬と直義党の上杉憲顕の2人が就いていた。しかし観応の擾乱が生起して両党が争い始めると、関東でも1350年11月12日、上杉憲顕の子能憲(師直に殺された上杉重能の養子)が常陸国信太荘で師冬討伐に挙兵した。12月1日、憲顕も守護を務める上野国に下向して挙兵した。坂東八平氏・武蔵七党らは皆上杉方に付いた上、旗印であった基氏を直義党に奪われたため、寡兵の師冬は甲斐国へ落ちて須沢城に立て籠もった。1351年1月4日、上杉憲将が数千騎の軍勢を率いて師冬を倒すため、甲斐へ発向した。須沢城には上杉勢と下諏訪の祝部の軍勢が攻め寄せ、3日3晩の激戦の末に1月17日に64人の武者と共に自刃したと言う。

 須沢城は、御勅使川北岸にそびえる山地の上にある標高700m付近の広い緩斜面にある。この緩斜面は一面の畑となっており、明確な遺構は確認できない。南東に石祠の祀られた塚があるが、遺構かどうかは不明である。この横には倒れた解説板があるが、解説文は既に判読できない状態である。緩斜面の最上段には善応寺があり、観音堂の脇に城主のものとされる宝篋印塔が残っている。善応寺の寺伝では、高師冬滅亡の際に善応寺も被害を受けたとあることから、南北朝期によくある寺院城郭であったのかもしれない。いずれにしても、現在では畑地の段以外に城跡を思わせるものはない。
南東にある塚→DSCN5095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.656538/138.409796/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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