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勝山城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5360.JPG←丘陵東側の堀跡
(2021年2月訪城)
 勝山城は、甲斐・駿河を結ぶ中道往還を押さえる交通の要地に築かれた城である。郡内の勝山城と区別するため、曽根の勝山城とも呼ばれる。永正年間(1504~21年)に甲斐守護武田信縄の異母弟油川彦八郎信恵・同四郎縄美が勝山城に拠ったと伝えられる。信縄の父信昌は信恵を後継者に望んだが、信縄はクーデターを起こして実力で家督を継ぎ、信昌は隠居した。しかしその後も油川氏との間で家督をめぐる争乱は続き、一旦和睦するが、信縄が1507年に病死すると内訌が再燃し、結局1508年10月に信縄の後を継いだ若き信虎によって油川氏は滅ぼされ、乱が終息した。1515年、上野城を拠点に西郡一帯に勢力を持っていた庶流の大井信達・信業父子は駿河の今川氏親の援助を受けて、信虎に反抗した。信虎は大井氏討伐のため上野城を攻撃したが、大敗した。また大井氏を支援した今川勢は、郡内の吉田城や中道の勝山城に拠って信虎方に攻撃を加えた。しかし1517年、信虎は勢力を盛り返し、勝山城の今川勢を孤立させ、今川氏と武田氏が和睦し、大井氏も信虎に降った。1521年9月、今川氏の部将で遠州土方城(高天神城)主福島正成が1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻したが、この時勝山城は今川勢に占拠されている。時代は降って1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、中道往還を通って甲斐に入った徳川家康が、勝山城を修築し、服部半蔵に伊賀組を添えて守らせたと言う。

 勝山城は、標高271m、比高20m程の独立した低丘陵に築かれている。丘陵の東側は果樹園担っているが、それ以外は未整備の薮に埋もれている。南から果樹園となった腰曲輪を登る道があり、それを登っていくと丘陵の東側を南北に区画する幅広の空堀に至る。空堀の西端に虎口があり、その上に二ノ郭、更に先に主郭がある。主郭と二ノ郭は段差だけで区画されている。主郭はほとんど自然地形に近く、郭内はお椀状に傾斜している。主郭・二ノ郭の外周には腰曲輪が築かれているが、ほとんどが激薮に埋もれており、二ノ郭周囲の腰曲輪だけが果樹園となっていて形状が確認できる。北側の腰曲輪には竪堀があるらしいが、遠くから薮が凹んだ形になっていることでわかる程度である。勝山城は、歴史的に重要な城であるが、あまり大規模に普請された形跡がなく、縄張りにも見るべきものが少ない。ちょっと残念な城である。
虎口跡→DSCN5377.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.602402/138.596038/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

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