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小山城(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5463.JPG←南東の隅櫓台
(2021年2月訪城)
 小山城は、武田氏の一族穴山氏が城主であった城である。1450年には穴山伊豆守が小山城主で、武田信重が黒坂太郎を討伐中に、小石和の信重館を攻撃し、信重を自刃に追い込んだ。その後、1504年には穴山伊予守信永が小山城主であり、1523年3月に鳥坂峠を越えて侵入してきた南部下野守と花鳥山で戦った後、小山城で防戦したが、二ノ宮常楽寺へ落ち延びて自刃した。その後、小山城は南部氏に守られていたが、1548年に罪を得て城を捨て、小山城は一旦廃城となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、御坂城から徳川勢の背後を窺う北条氏の別働隊(北条氏忠隊)に対し、新府城に本陣を置いた徳川家康は鳥居彦右衛門元忠に小山城を修築させ、騎馬130・雑兵600人をもって守らせたと言う。元忠は、小山城から出撃して御坂城の北条勢を黒駒合戦で討ち破り、徳川氏の優勢を決定付けた。

 小山城は、笛吹川の支流浅川扇状地の北端の緩斜面上に築かれている。この地は、鎌倉街道の通る御坂路と鳥坂峠を越える若彦路が南北を通り、西にある中道往還(甲斐・駿河を結ぶ重要街道)にも近い交通の要衝である。大土塁で囲まれた方形城で、南辺の土塁の一部が削られているものの、遺構がよく残っている。市の史跡に指定され、公園化されている。東側に虎口が開かれ、外周には空堀がよく残っている。空堀の外には、東以外の3面に土塁も築かれていて、いわゆる比高二重土塁となっている。特に北側では、外土塁と空堀は周りの平地より高い位置に築かれていて、腰曲輪の様になっている。北西と南東の角には隅櫓台が築かれ、特に南東の櫓台は東に張り出して大手虎口に対して横矢を掛けている。なお、大手虎口には石組が残っていると解説板に書かれているが、どれのことか今一つよくわからなかった。
北側の空堀→DSCN5436.JPG
DSCN5442.JPG←西側の比高二重土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.617980/138.656548/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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