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獅子吼城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN5827.JPG←二ノ郭外周の石積み
(2021年2月訪城)
 獅子吼城は、北条・徳川が争った天正壬午の乱で、徳川勢が攻め落とした城である。徳川方の記録には江草小屋と記載されている。元々、鎌倉末期には信田小右衛門実正・小太郎実高父子の居城であった。応永年間(1394~1428年)には武田信満の3男江草兵庫助信泰(信康)の居城となった。しかし信泰は若くして没し、その跡を弟の今井信景が継ぎ、以後今井氏が続いた。1532年、武田信虎は獅子吼城を落城させ、城主今井信元は信虎に臣従した。武田信玄の時代には烽火通信の重要な中継地点であった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に武田遺領をめぐって北条・徳川が争った天正壬午の乱の際には、若神子城に本陣を置いた北条氏が、後方守備と信州峠を越える街道を扼する拠点として兵を置いて押さえていた。しかし徳川勢との長期対陣中の9月初旬、武田氏遺臣の津金衆小尾監物祐光・津金修理進胤久らと服部半蔵正成率いる伊賀衆で構成された徳川方の別働隊によって奇襲されて陥落した。北条方は直ちに3000余の軍勢で奪還を図ったが、津金衆・伊賀衆は逆に不意打ちして撃退した。これに先立って大豆生田砦が陥落しており、更に獅子吼城の失陥によって北条方の中尾城は徳川方に囲まれて完全に孤立することとなった。逆に徳川方は獅子吼城を確保したことで、信州峠を越えて佐久方面へ侵攻することが可能となり、佐久の北条方諸城を攻略して北条方の補給路を断った。更に真田昌幸の離反によって窮地に陥った北条氏は、徳川氏と和睦して乱が終結した。

 獅子吼城は、塩川東岸にそびえる標高788.8m、比高140m程の城山に築かれている。以前は東の尾根から登れたらしいが、現在は西麓から新しい登山道が整備されている。岩山に築かれた城であるため、城内と周辺には多数の石が散乱しており、石垣も多数散在している。但し一部を除いて積み方は乱雑なものが多いので、あまり石積み技術を持たなかった北条勢力が、城の防備を強化した際に築いたものとも考えられる。縄張りは長円形の主郭の周囲に二ノ郭を廻らし、南西と北西の尾根に腰曲輪群を築いている。これらの切岸には石積みが多数見られ、石段で城道を構築しているため、城内通路がよく残っている。北東の腰曲輪群の先には円弧状横堀が穿たれ、堀は南側で一直線状に降っている。この横堀は、末端に綺麗な枡形虎口が構築されており、城内通路を兼ねていたことがわかる。横堀の北側下方にも何段かの腰曲輪が築かれ、竪土塁・竪石塁が見られる。城の背後に当たる東尾根にも曲輪群と堀切がある他、北側斜面に大きな竪堀も落ちている。獅子吼城は、「小屋」と言われるほど小規模な城ではなく、縄張りも比較的技巧性があり、中々見応えがある。
石積みのある腰曲輪群→DSCN5867.JPG
DSCN5904.JPG←北東の円弧状横堀
竪堀→DSCN5999.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.818570/138.465446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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