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吉田城山(山梨県富士吉田市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN6677.JPG←土塁のある主郭
(2021年2月訪城)
 吉田城山は、まだ駿河の今川氏親の大将として活動していた伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が、甲斐侵攻の際に布陣した城である。『勝山記』によれば1502年9月18日、甲斐に侵攻した宗瑞は、吉田城山と小倉山に布陣した。20日には合戦が行われた。武田信縄は国内勢力を動員して対抗し、宗瑞は10月3日夜に退陣したと言う。この甲斐侵攻は、武田氏の内訌への今川氏による介入に基づくものと考えられている。また1515年には上野城主大井信達が武田信虎に反旗を翻して内戦が起こり、翌16年7月に大井氏に呼応した今川勢が甲斐に侵攻して吉田城山を占拠したと言う。その後、小山田氏の部将小林宮内丞が吉田城山の奪還を図り、武田勢の総攻撃も加わって今川勢は1517年正月に撤退した。

 吉田城山は、鎌倉往還(現在の国道138号線)の北側に位置する標高874m、比高40m程の南北に長い丘陵上に築かれている。この山は、南方の忍野鐘山、小倉山と共に、吉田地域へ入る東南の関門の役割を果たしていた。吉田城山の丘陵は、南半分がホテルの跡地となっていて破壊されている。しかしそれより北側に遺構が残っている。特に明確な登道はないが、私は北端から登城した。ここだと、すぐ近くにベイシアがあるので、そこの駐車場に車を停めることができるので便利である。但しスーパーが近いため、すぐ脇を通る車道は車の通行量が多いので、丘に取り付く際に怪しまれないように注意しないといけない。北端部は細尾根になっているが、段曲輪らしい平場が何段かあり、形状はややはっきりしないが虎口らしい地形も見られる。尾根を登って南に進むと、広い平坦地が広がり、その中央に切岸で囲まれた二ノ郭がある。二ノ郭とその南の尾根の東側には帯曲輪らしい平場がはっきりと確認できる。更に南に進むと、途中に堀切状の窪みがあり、その南に3段ほどの平場群があり、最上段が主郭と考えられる。主郭の後部には土塁が築かれ、背後に切岸があり、そこから東に向かって片堀切が落ちている。しかしその南のホテル跡地は伐採が進んでいて、どうも何かの建設が行われそうな感じである。伐採が主郭の際まで迫っているので、遺構の破壊が心配である。遺構としては以上であるが、実はこれらの一部は、後世の耕作・植林のために削平された可能性があるらしい。破壊された部分もあるので、全体としてどのような縄張りの城だったのか、明確でないところがあることは留意すべきである。
二ノ郭と腰曲輪→DSCN6626.JPG
DSCN6664.JPG←堀切状の窪み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.470570/138.802718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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