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右左口砦(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7189.JPG←主郭
(2021年2月訪城)
 右左口(うばぐち)砦は、甲斐・駿河を結ぶ重要街道である中道往還を押さえる砦である。1582年の天正壬午の乱の際、徳川家康は中道往還を通って甲斐に入り、北条氏直の大軍と2ヶ月半に渡って長期対陣した。黒駒合戦などで勝利を積み重ねた末、徳川方の優勢下で和睦が結ばれ、乱が終結したのが同年10月下旬である。乱終結後の11月4日に「うは口筋ニ取手普請候」と『家忠日記』にあり、その1ヶ月後の12月7日に「普請出来候」とあるのが右左口砦のこととされる。松平主殿助家忠が翌年まで中道筋の警護のために右左口砦を守備したと言う。しかし平山優著『天正壬午の乱』では、乱の最中に右左口砦は金刀比羅山砦と共に服部半蔵正成ら伊賀衆が守備し、中道往還の監視に当たったとしている。尚、砦の西麓には、武田氏を滅ぼした織田信長が駿河経由で凱旋するに当たり、徳川家康が整備したと言われる右左口宿がある。

 右左口砦は、右左口宿の背後にある標高537mの丘陵上に築かれている。幸い県道113号線が砦の背後まで通っているので、車で近くまで行くことができる。今冬は雪が少なかったので、まだ2月末にも関わらず県道を通行できた。県道から南斜面の桑畑を突っ切ると、山頂の主郭に至る。主郭は三角形に近い台形状の平場で、周囲を切岸で囲み、北西と東に腰曲輪を伴っている。また北西斜面は斜度が緩く、ここに竪堀群が見られる。しかし形状や意図がわかりにくく、謎の竪堀群である。遺構としてはそれだけで、耕地化による後世の改変もあるのだろうが、『家忠日記』にある1ヶ月も普請に要した城砦とは考えにくい。おそらく右左口砦と対となる金刀比羅山砦と合わせての普請だったと想像される。
謎の竪堀群→DSCN7206.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.566122/138.595394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

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  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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