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長坂氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8314.JPG←主郭の土塁
 長坂氏屋敷は、釣閑屋敷とも言い、武田氏の重臣長坂氏の屋敷と伝えられる。長坂氏は、武田氏の一族栗原氏の庶流で、1504年以降に長坂郷に入部して長坂氏を称した。長坂氏2代大炊助虎房は、1542年9月の武田信玄と高遠頼継との合戦の際、頼継の弟蓮芳を討ち取る功名を上げた。1548年、虎房は諏訪郡代となって上原城に入り、諏訪の経営に当たった。虎房の子釣閑斎光堅も行政手腕に優れ、騎馬40騎・足軽45人を率いて足軽大将として信玄に仕えた。信玄死後は武田勝頼の側近となって跡部大炊助勝資と共に活動したが、『甲陽軍鑑』では武田家没落の原因となった奸臣として評されている。1582年3月、織田信長の武田征伐の際、勝頼滅亡に殉じて甲府で自刃した。『甲斐国志』では、北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際、北条勢が長坂氏屋敷を修築して砦としたと解釈している。しかし街道筋から離れて存在しているため、北条氏の利用については疑問視する意見もある。
 尚、屋敷地としても、集落から離れて丘陵上に単独に存在するため、実際の屋敷は別の場所にあったとの説もある。

 長坂氏屋敷は、長閑原と呼ばれる比高10m程の丘陵上に築かれている。西麓から丘陵に登る道が付いているが、屋敷跡の遺構は薮の奥に存在するため、場所がわかりにくい。ちょっと薮の薄そうな所を選んで突っ切ったら、ようやく遺構に辿り着けた。基本的に単郭の城館で、全周を土塁で囲み、南辺の中央部に虎口を設けている。主郭の西・南と東の半分ほどは外周に空堀が廻らされ、前述の虎口の外には土橋が架かっている。主郭は西と南は直線形の塁線であるが、東から北にかけては大きく弧を描いている。この弧の部分の外側には帯曲輪が築かれている。遺構としてはこれだけで、主郭内はある程度薮払いされているものの、土塁上や外周は薮がひどい。丘陵上は一面の雑木林と草薮で、目印になるものもなく、遺構を見つけるのも大変である。
薮に埋もれた空堀→DSCN8330.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.814411/138.377792/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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