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中山砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8405.JPG←土塁で囲まれた主郭
 中山砦は、釜無川流域の地域武士団「武川衆」が守った砦である。武川衆は、一条信長(武田信光の子)の孫時信の諸子が分立して形成した武士団で、青木・折井・山高柳沢・牧原・教来石・白須・山寺・横手等の諸氏が知られる。戦国期には武田氏配下の一勢力で、1561年の第4次川中島合戦では武田典厩信繁の麾下で戦った。1582年3月の武田勝頼滅亡の際には武川衆は戦う機会を失し、主家の終焉を見送る結果となった。しかしそのわずか3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死し、北条・徳川両氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発すると、徳川家康はいち早く武川衆の有力者折井市左衛門尉次昌・米倉主計助忠継との接触を図り、武川衆は徳川方に付いて中山砦を守備して北条勢と対峙した。『甲斐国志』によれば、8月29日、中山砦を守っていた武川衆が花水坂で北条勢と戦い、北条の間者中沢某を討ち取り、山高宮内・柳沢兵部が首級を得たと言う。中山砦は、甲斐国の北方を防衛する重要な砦であった。

 中山砦は、釜無川と大武川の間にそびえる標高887.3mの中山の山頂に築かれている。北西の中山峠から登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。途中にある中山の西の峰には展望台が建っているが、この峰も砦の出曲輪であったらしく、北尾根に堀切が穿たれている。この峰から東に尾根を辿ると二重堀切があり、その上に主郭がそびえている。主郭は外周を土塁で囲んだ繭型の細長い曲輪で、両端が円弧状となっている。内部は土塁で南北2郭に分かれ、2郭を仕切る土塁には中央に虎口がある。また北郭の東側には虎口が築かれ、帯曲輪を経由して主郭南側の半月型の腰曲輪に通じている。この腰曲輪の下方には円弧状横堀が穿たれている。この横堀を三日月堀と呼ぶ城郭本もあるが、この呼称は疑問である。他地域の山城でもこうした円弧状横堀はあるが、そこでは三日月堀と呼ばれることはない。武田の城だと、実態から離れてすぐ三日月堀と呼びたがるのは悪しき風習だと思う。この円弧状横堀から尾根を少し下ると、そこにも堀切が穿たれている。また主郭の東斜面には3段の帯曲輪があり、竪堀も落ちている。中段の帯曲輪は北東尾根まで伸び、ここでも北端部に竪堀が落ちている。その上には腰曲輪、下方の北東尾根の先にも小郭と堀切がある。北東尾根には更にしばらく行った先にも腰曲輪群が築かれている。
 中山砦は、大きな城砦ではないので、籠められる兵数は多くはないが、信州往還の道筋を眼下に押さえる要地であり、重要性がよく分かる。
円弧状の横堀→DSCN8439.JPG
DSCN8380.JPG←西の峰北側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.793667/138.338664/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 山梨編

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  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本


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らんまる

お疲れ様です。
山梨編、いいですねえ。小生も中途半端に回っているので歯抜けが多くて、貴殿の記事を読んでいるともう一度すぐにでも行ってみたい衝動にかられますw
残念ながら山梨もマンボウ指定となり越境できません。我が長野や最後の頼みだった新潟も時間の問題みたいです。

アフター山城サミットも着々と準備してますがどうなることやら(汗)
by らんまる (2021-08-20 09:30) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
設定エラーでコメントに気付くのが大変遅れてしまいました。申し訳ありません。
山城サミットに「アフター」があったんですね!長野県民限定とはいえ、無事に開催されたようでよかったです。
by アテンザ23Z (2021-12-20 22:12) 

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