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簗瀬城(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1710.JPG←帯曲輪から見た主郭切岸
 簗瀬城は、簗瀬要害とも言い、下野の名族那須氏の庶流簗瀬氏の詰城である。那須資隆の3男幹隆は芋渕に分封されて芋渕氏を称し、芋渕要害に拠っていた。芋渕氏は、室町時代に入ると梁瀬に移って簗瀬氏を称し、簗瀬城を築いたと言う。梁瀬への移転時期は不明であるが、室町中期以降と考えられている。簗瀬氏は、永正年間(1504~21年)頃から諸記録にその名が現れ、伊王野氏麾下で活躍した。後に梁瀬は大関氏領となり、簗瀬氏は大関氏に仕えて、やがて黒羽に移り住んだと言う。

 簗瀬城は、余笹川流域から山一つ奥に入った山間の、標高283m、比高50mの山上に築かれている。西側の谷の所から小道が伸びており、これを登っていくと城の北の尾根に登ることができる。但し、この道の入口はほとんど薮に埋もれており、パッと見では道があるとはわかりにくい。登り着いた尾根を南に辿っていくと、やがて主郭北側の堀切が現れる。主郭は三方に尾根が伸びる頂部に位置しており、そのためT字を横にした様な、ちょっと変わった形の曲輪となっている。しかも郭内は何段もの段差に分かれており、北端部が一番高くなっている。最初に現れた北側の堀切は、東側に帯曲輪を伴っており、この帯曲輪はそのまま北東の尾根に繋がっている。北東尾根の先には段曲輪が数段築かれている。また前述の帯曲輪は主郭の東側に伸びている。主郭の南部は切岸が不明瞭なほぼ自然地形の幅広の尾根で、東斜面に横堀が穿たれ、南尾根には小堀切と小郭が置かれている。主郭の西部は明確な段差で数段に区画され、西尾根を堀切で分断している。この他、主郭からやや北西に離れたところにも段曲輪や小堀切がある。簗瀬城は、ほとんど単郭に近い小規模な城で、あくまで有事の際の詰城の位置付けであったと思われるが、周辺尾根にも守兵を配置して守りを固めていたことがうかがわれる。
主郭北側の堀切→DSCN1712.JPG
DSCN1747.JPG←主郭西側の堀切
主郭西部の段々の平場→DSCN1760.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.938959/140.152438/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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