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石井城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2531.JPG←古城内集落の遠望
 石井城は、石井館とも言い、弘安年間(1278~88年)に横田五郎業澄によって築城されたと伝えられる。横田氏は後に石井氏を称した。南北朝後期の1368年には、鎌倉府が河越直重と宇都宮氏綱を討伐した際、石井城が攻撃を受けた。これより時代を遡った1351年、足利尊氏は薩埵山合戦での軍功により、畠山国清・宇都宮氏綱・河越直重を主軸として鎌倉府を刷新した薩埵山体制を構築した。しかし尊氏の子で初代鎌倉公方となった足利基氏は1362年、長ずるに及んで父尊氏が追放した上杉憲顕を越後守護に任じて復権させた。それまで越後守護は宇都宮氏綱であり、守護代にはその重臣芳賀禅可が就いていたため、宇都宮氏は基氏と苦林野で合戦するなど、激しく抵抗した。しかし結局憲顕の復権が成ったことで薩埵山体制は崩壊し、河越・宇都宮両氏は鎌倉府に対して遺恨を持つこととなった。鎌倉府による河越・宇都宮両氏の討伐戦は、この薩埵山体制崩壊を遠因としたものであった。1368年6月に河越氏を降した鎌倉府勢は、一旦武蔵府中まで戻った後、足利経由で宇都宮に向かい、宇都宮氏綱を攻撃した。まず8月19日に横田要害を攻撃して宇都宮勢との合戦が始まり、同月29日には贄木城を攻略、9月6日に宇都宮城と石井城を攻撃したと言う。その後の石井城の歴史は不明であるが、最後の城主は慶長年間(1596~1615年)に石井主計であったと言う。1597年の宇都宮氏改易によって廃城になったのだろう。

 石井城は、国道新4号バイパスと久部街道との交差点の北東にあったらしい。現在、辺り一帯は一面の水田の中に民家が点在している。城跡付近には古城内、蔵ノ内、馬場先、堀ノ内などの字名が残っていると言う。城の正確な位置はよくわからなかったが、古城内(こじろうち)という集落があり、昭和20年代前半の航空写真を見ると、古い河道の曲流部に突き出た部分にこの集落があった様なので、この集落も城の一部ではないかと思われる。しかし付近にいた数人の人に聞いたが、誰も石井城のことを知らず、堀ノ内の字名の場所もご存知ではなかった。ただ集落北東の大きな民家の中に茂みが見え、土塁が残る可能性があるが、高塀に遮られて確認できなかった。
 その後情報を得て、2023年2月に堀ノ内を再訪した。宇都宮市の都市基盤保全センターの南にある民家が堀ノ内で、遠目に見ると居宅の北側に屋敷林があり、土塁らしいものがある。その更に北方には周囲との段差があり、堀状水路と土塁っぽい土盛りも車道脇に確認できる。堀ノ内が主郭なのであろうか?いずれにしても遺構の湮滅が進んでいて、往時の縄張りを想像することも困難である。
西側から見た堀ノ内→DSCN1907.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.539614/139.942045/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


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