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大野砦(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2983.JPG←石塁上の稲荷社と水路
 大野砦は、1582年に北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際、北条・徳川両軍の争奪が行われた城砦である。元々は、大野太郎の居城であったとされる。1582年6月、本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。こうした動きの一方で、両者とも甲斐・信濃の国人衆を味方につけるための工作を進めた。甲斐では、匿っていた武田遺臣を重用して調略を進めた徳川方が有利であったが、一部の国人衆は北条方に付くものもあった。雁坂口の守備を担っていた大村党もその一つで、雁坂口から北条勢を引き入れようと画策し、浄居寺城主大村三右衛門尉忠堯・その子伊賀守忠友が大野砦に立て籠もった。これに危機感を抱いた徳川方は、穴山衆の穂坂常陸介・有泉大学らに命じてこれを急襲させた。大村党は大敗して滅亡し、大野砦は徳川方の支配下に入った。その後、松平清宗・内藤信成、甲斐衆の三枝虎吉・御手洗直重らが大野砦を守ったが、8月9日、笹子峠を押さえていた北条軍別働隊は風魔孫右衛門率いる200人余に大野砦への夜襲を掛けさせた。不意を衝かれた徳川方は見張り番の将兵30人余が討死したが、北条勢を撃退し、風魔一族の三澤勘四郎ら23人を討ち取ったと言う。

 大野砦は、笛吹川と重川に挟まれた平地に築かれている。土豪屋敷を利用して急造した砦であったと考えられているが、現在は住宅地となっていて明確な遺構は残っていない。東南隅の稲荷社が、石塁の上に残っており、その東側には堀跡の可能性がある水路がある。天正壬午の乱に現れる城砦の一つであるが、解説板も何もなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.670763/138.676043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

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