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一関城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN4042.JPG←千畳敷と呼ばれる主郭
 一関城は、近世の一関藩が築いた陣屋以前に存続していた城である。伝承では、古くは大同年間(806~09年)に征夷大将軍坂上田村麻呂の陣地になったと言われ、その後も天喜年間(1053~57年)に安倍貞任の弟磐井五郎家任の砦、また康平年間(1058~64年)には源頼義・義家親子の篠見山の陣地になったと伝えられるが確証はない。戦国末期の天正年間(1573~92年)には、葛西氏の家臣小野寺伊賀道照が一関城主となったが、これは葛西氏が居城を石巻城から登米寺池城(保呂羽楯)に移した際、登米を領していた小野寺氏を移封したものと推測されている。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、一関は秀吉の家臣木村吉清・清久父子の支配下となったが、同年10月に葛西大崎一揆が起き、その鎮圧後は伊達政宗の支配下となった。1604年、政宗は叔父の留守政景を一関に移封した。この留守氏時代には、一関城東北麓に居館が造営された。以後の一関城の存廃はよくわからないが、実質的な城としての機能は廃されたと思われる。

 一関城は、磐井川東岸の比高60m程の釣山に築かれている。現在は公園として整備されており、かなり改変を受けている。山頂には千畳敷と呼ばれる広い主郭を置き、後部に烽火台と伝えられる小山があるが、烽火台と言うより櫓台か、宗教的な塚であろう。現在は小山の手前に田村神社が建っている。主郭の背後に当たる西側には堀切らしき地形があるが、訪城したのが仲秋でまだ草木が生い茂っており、形状があまり把握できなかった。主郭の北と南東には腰曲輪が配され、北のものには「藩主の井戸」と伝えられる井戸跡が残る。北東・北西に伸びる2つの角の様な尾根には、段々に舌状曲輪群を配置している。この2つの尾根に挟まれた窪地にも段々に平場が展開しており、これらも曲輪跡と思われるが、公園化による改変が激しく、確実なことはわからない。主郭の西と南西の尾根にも曲輪があるらしいが、薮だらけなので踏査しなかった。一関城は、地形的には中世平山城の雰囲気を残しているものの、公園化が進んでいるため、城と言われないとわからない人がほとんどであろう。
井戸の残る腰曲輪→DSCN4060.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.924603/141.128912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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