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水沢城(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN4542.JPG←住宅地内に残る本丸切岸の段差
 水沢城は、藩政時代には水沢要害とも呼ばれる。元々は、1408年に4代将軍足利義持の元禁衛士佐々木将監繁綱が、葛西氏を頼って奥州に下り、胆沢郡に采地千町を給され、水沢城を居城としたと伝えられる。以後、佐々木氏は葛西氏の麾下で各地の戦いに参陣した。1485年の葛西氏と気仙有住の南部氏との戦いでは佐々木信綱が活躍した。1523年に葛西胤信と大崎氏とが佐沼・深谷等で衝突した際には、信綱の嫡子信義が参陣し、桃生郡矢本で討死した。1579年の磐井郡流庄峠城主寺崎良継と栗原郡岩ヶ崎城主富沢直綱の争いの際には、鎮圧のために佐々木実綱が出陣しており、実綱は1588年の気仙浜田の兵乱の鎮圧にも出陣した。しかし1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、佐々木氏も没落した。その後、葛西大崎一揆を経て、この地は伊達領となり、水沢城には伊達氏の家臣白石宗実、柴田宗朝、石母田宗頼らが相次いで入った。1629年に留守政景(伊達政宗の叔父)の子宗利が金ケ崎城から移されて水沢城主となった。以後、幕末まで留守氏(水沢伊達家)の支配地であった。

 水沢城は、小河川に面して北に向かって突き出た台地上に築かれている。現在は市街化で遺構はほとんど壊滅している。その状況は宇都宮城よりも酷く、しかも標柱などもほとんど建てられていないので、往時の縄張りを追うことは難しい。現在奥州市役所が建っているのが三ノ丸で、その土塁跡に姥杉が立っている。その他は遺構はほとんど残っておらず、辛うじて本丸北側から西側にかけての切岸が、住宅地内の段差として残っている程度である。伊達21要害の中では最も悲惨な状況であり、残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.146013/141.137559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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