黒澤尻柵(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]
←周囲の空堀と切岸
黒澤尻柵は、平安時代に俘囚の長安倍氏が築いた城柵である。安倍氏は北上川沿いや重要な地に城柵を築き、一族を置いて地域支配の拠点としていた。黒澤尻柵には、安倍頼時の5男正任が置かれたと言い、この地は「安倍舘」とも言い伝えられている。1051年に生起した前九年の役では、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義は安倍氏の強勢の前に苦戦を強いられ、出羽の豪族清原氏の援軍を得てようやく頽勢を挽回した。1062年、安倍貞任は源氏・清原氏連合軍と厨川柵で最後の決戦を行ったが、この合戦の途中、黒澤尻柵は落とされた。正任は出羽に逃れた後に投降し、伊予に配流されたと言う。
その後、鎌倉・室町期には、この地は黒沢尻大館として豪族の居館となったらしい。館主の阿部氏は、安倍宗任の弟家任の後裔を称した。鎌倉幕府御家人千葉頼胤の次男・胆沢郡百岡城主百岡胤広の嫡男胤勝が阿部氏に入嗣し、中興の祖となった。阿部氏は黒沢尻氏とも称し、和賀氏の惣領家と姻戚関係を有した。しかし1435年、和賀惣領家と須々孫氏との確執が一族家臣を巻き込んだ大規模な内訌「和賀の大乱」に発展すると、黒沢尻氏は須々孫方に付いて稗貫出羽守を頼り、和賀氏の支城飯豊城を陥落させたと言う。
黒澤尻柵は、東北新幹線北上駅の北東にある。北上川西岸の平地で、近くには江戸時代に河岸として北上川舟運の一角を担った黒沢尻河港があった。現在柵跡は、西側部分だけが公園化されて残っており、他は宅地化で湮滅している。公園の中には円弧状の空堀・切岸で囲まれた高台(曲輪)がそびえている。残された部分はわずかであるが、主要駅に近い市街地の中で、これだけ遺構が残っているのは奇跡に近い。貴重な遺構である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.283435/141.125457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
黒澤尻柵は、平安時代に俘囚の長安倍氏が築いた城柵である。安倍氏は北上川沿いや重要な地に城柵を築き、一族を置いて地域支配の拠点としていた。黒澤尻柵には、安倍頼時の5男正任が置かれたと言い、この地は「安倍舘」とも言い伝えられている。1051年に生起した前九年の役では、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義は安倍氏の強勢の前に苦戦を強いられ、出羽の豪族清原氏の援軍を得てようやく頽勢を挽回した。1062年、安倍貞任は源氏・清原氏連合軍と厨川柵で最後の決戦を行ったが、この合戦の途中、黒澤尻柵は落とされた。正任は出羽に逃れた後に投降し、伊予に配流されたと言う。
その後、鎌倉・室町期には、この地は黒沢尻大館として豪族の居館となったらしい。館主の阿部氏は、安倍宗任の弟家任の後裔を称した。鎌倉幕府御家人千葉頼胤の次男・胆沢郡百岡城主百岡胤広の嫡男胤勝が阿部氏に入嗣し、中興の祖となった。阿部氏は黒沢尻氏とも称し、和賀氏の惣領家と姻戚関係を有した。しかし1435年、和賀惣領家と須々孫氏との確執が一族家臣を巻き込んだ大規模な内訌「和賀の大乱」に発展すると、黒沢尻氏は須々孫方に付いて稗貫出羽守を頼り、和賀氏の支城飯豊城を陥落させたと言う。
黒澤尻柵は、東北新幹線北上駅の北東にある。北上川西岸の平地で、近くには江戸時代に河岸として北上川舟運の一角を担った黒沢尻河港があった。現在柵跡は、西側部分だけが公園化されて残っており、他は宅地化で湮滅している。公園の中には円弧状の空堀・切岸で囲まれた高台(曲輪)がそびえている。残された部分はわずかであるが、主要駅に近い市街地の中で、これだけ遺構が残っているのは奇跡に近い。貴重な遺構である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.283435/141.125457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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