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松倉城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9123.JPG←主郭
 松倉城は、越中3大山城の一つに数えられ、新川郡守護代となった椎名氏の居城である。松倉城の文献上の初見は南北朝初期の1338年で、『太平記』第20巻に越中守護普門(井上)蔵人俊清が越後南朝方との戦いに敗れ、松倉城に立て籠もったとの記述がある。1344年、俊清は東大寺領の荘園押領等によって越中守護を罷免されたことから室町幕府に背き、幕府から追討されることとなった。1347年、幕府は桃井直常・能登守護吉見氏頼らに俊清を討伐させ、俊清の籠もる松倉城を攻撃し、1348年10月に松倉城を攻略した。俊清は逃れて、内山城に立て籠もり、その後没落した。その後桃井直常が越中守護となったが、直常は足利直義党の最右翼の武将で、1350年に足利尊氏・直義兄弟による幕府を二分する内訌「観応の擾乱」が勃発すると、直常は終始直義党として尊氏に激しく反抗し、直義没後も反幕府勢力として越中を拠点として活動した。1369年、直常は能登に進攻し、能登吉見勢と能登・加賀・越中3国で交戦し、同年9月29日には松倉城に引き籠もり、その後も継続して松倉城を拠点として抵抗を続けた。しかし幕府方の攻撃によって、桃井氏は没落した。後に畠山氏が越中守護となると、在地豪族の椎名氏は畠山氏に服属して松倉城を本拠とした。椎名氏は元々下総の名族千葉氏の庶流で、その一族が鎌倉時代に越中に入部したらしい。室町中期に椎名氏は新川郡守護代となり、礪波郡守護代遊佐氏、射水・婦負郡守護代神保氏と共に、越中三守護代家が分立した。畠山持国の後継を巡る内訌が生じると、椎名氏は畠山政長派となった。畠山氏の内訌が直接の契機となって応仁の乱が勃発すると、椎名氏は東軍に属して戦った。戦国時代に入ると、神保・椎名両氏が越中を二分して拮抗した。守護畠山氏の勢力が減退し、神保慶宗が越中一向一揆と手を結んで自立の動きを見せると、1506年、畠山尚順は越後守護代の長尾能景に支援を求め、これが越後長尾氏が越中の騒乱に関わるきっかけとなった。1515年、尚順は再び越後守護代長尾為景(能景の子)に神保氏討伐の支援を求めた。以後、為景はしばしば越中に侵攻し、神保慶宗・椎名慶胤らと交戦を繰り返した。1520年、為景は神保慶宗・椎名慶胤を滅ぼし、翌21年に畠山尚順から新川郡守護代に任ぜられた。為景は、椎名氏の旧領を安堵して椎名長常を又守護代とし、新川郡支配を委ねた。1536年、長尾為景が没すると椎名氏の支配は不安定化し、神保慶宗の子長職による神保氏再興運動が活発化した。神保氏は勢力を拡大し、椎名氏と越中を二分して抗争を繰り返した。1560年、富山城の神保長職と敵対する松倉城主椎名康胤救援のため、越後守護代長尾景虎(上杉謙信)は越中に侵攻。景虎は神保氏を破り、椎名氏を安泰にして帰国した。しかし後に七尾城を追放された能登国守護畠山義綱への対応を巡って、康胤と謙信との間に溝が生じ、1568年 、遂には武田信玄・越中一向一揆と結んで上杉氏から離反した。翌年8月、謙信は康胤が籠もる松倉城を攻撃し、康胤は松倉城を追われた。その後は上杉氏の属城となり、魚津城と並んで上杉氏の越中における重要拠点となった。その後、謙信の重臣河田豊前守長親が松倉城を守ったが、1578年に謙信が急死して御館の乱が生起すると、その隙を突いて越中に侵攻した織田軍に圧迫され、上杉方は越中東部に圧迫された。1580年には織田方の神保長住が松倉城下に進撃して放火している。翌81年、長親は松倉城で病没した。1582年、柴田勝家・前田利家・佐久間盛政・佐々成政らの織田軍が上杉方の松倉城・魚津城を攻撃し、6月3日に魚津城は玉砕して落城した。これは本能寺の変で織田信長が横死した翌日のことであった。本能寺の変の報を受けて織田勢は撤退し、上杉勢は直ちに魚津城・小出城などを奪還したが、翌83年に再び佐々成政の攻撃を受け、松倉城・魚津城は攻略されて越中は成政によってほぼ平定された。佐々氏やその後の前田氏の支配時代に松倉城が使用されたかどうかは不明であるが、慶長年間(1596~1615年)初期に廃城になったと伝えられる。

 松倉城は、標高413m、比高340m程の山上に築かれている。まともに登ったら大変だが、県の史跡に指定されており、城内まで車道が延びており、城の間近まで車で行くことができる。山頂の主郭を中心にY字型をした尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の縄張りとなっている。主軸となるのが北東尾根に連なる曲輪群で、南の主郭から順に二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭が堀切を介して連なっている。それぞれの曲輪には腰曲輪が付随して、守りを固めている。主郭の後部は一段高くなっているが、巨岩がゴロゴロしていて建物が建てられるようなスペースはなく、櫓台ではなく信仰的な施設が置かれたものと思われる。主郭の背後にも堀切を介して八幡堂と言う物見台のような曲輪が置かれているが、これも信仰的施設だったのだろう。八幡堂の周りにも腰曲輪が見られる。また二ノ郭の南西には虎口郭が付随し、三ノ郭には土塁が巡らされ、その東の尾根に数本の小堀切が穿たれている。四ノ郭は後部に物見台状の土壇を設け、北側に土塁を廻らしている。先端は堀切が穿たれ、更に東側に横堀を穿って防御している。一方、主郭の北西の尾根には大きな切岸で区画された何段もの広い舌状曲輪が連なっている。その先には木戸口があり、そこから更に西に下った所に大見城平と呼ばれる広大な居館地区の平場群がある。大見城平の最上部に当たる南東部には土塁で構築された屈曲した動線の枡形虎口が見られる。また大見城平の最下部には石垣の残る大手口があり、北西下方には大きく窪んだ井戸曲輪、北側には独立した物見砦がある。
 以上が松倉城の遺構で、主要部は整備されて見易いが、腰曲輪や主郭北西の曲輪群はほとんど未整備となっている。また車道によって腰曲輪群が改変されてもいる。しかし全体としては、往時の姿をよく残しており、見応えがある。尚、城までの車道の途中では、20~30頭の猿軍団のお出迎えがあった。
四ノ郭東の横堀→DSCN9396.JPG
DSCN9276.JPG←大見城平の平場群
大手門の石垣→DSCN9248.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.754505/137.437656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


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