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倶利伽羅堡(石川県津幡町) [古城めぐり(富山)]

DSCN1044.JPG←公園南西の堀切
 倶利伽羅堡は、平安末期から戦国末期まで繰り返し使用された堡砦である。治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)の際、1183年に木曽義仲軍の西上を阻止する為に北陸に出陣した平維盛率いる平家軍が、この地の猿ヶ馬場に本陣を置いたと伝えられる。しかし5月11日夜半、木曽勢の夜襲によって平家軍は大敗を喫した(倶利伽羅峠の戦い)。南北朝期の観応の擾乱の際には、1350年12月に足利尊氏方の加賀守護富樫氏が、足利直義方の桃井直常の上洛を阻止するため、倶利伽羅山に陣取った。戦国初期の1488年には、越智伯耆をリーダーとする一向一揆勢が倶利伽羅堡や松根砦に布陣した。戦国末期の1584年には、豊臣秀吉に敵対した富山城主佐々成政が、倶利伽羅に新たに砦を築き、秀吉方の前田軍攻略を開始し、末森城を攻撃した。

 倶利伽羅堡は、現在は倶利伽羅不動寺の境内となっている他、倶利伽羅古戦場の史跡広場となっている。そのため改変が進んでおり、明確な城砦遺構は少ない。しかし五社権現が祀られた標高276.7mの高台は周囲への眺望に優れ、城砦の主郭として適地である。この高台の周囲には2段ほどの帯曲輪状の平場が見られるが、遺構かどうかははっきりしない。また倶利伽羅公園の南西部にある墓地は、公園との間に堀切が見られる。公園の南斜面には畝状空堀が穿たれているとされ、笹薮でわかりにくいが、確かにそれっぽい地形が確認できる。
 倶利伽羅堡は、遺構はわずかであり、やはり倶利伽羅古戦場巡りとして行く方が適している。尚、他の加越国境城砦群と比べると城郭遺構があまりにわずかで、佐々勢がここに実際に砦を築いたのかどうか疑問に感じる。
高台周囲の帯曲輪状の平場→DSCN1065.JPG
DSCN1165.JPG←公園南斜面の空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.662317/136.816349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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