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白鳥城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1853.JPG←帯曲輪と本丸横堀
 白鳥城は、1585年の富山の役の際に豊臣秀吉が本陣を置いた城である。元々の創築は治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)の時と言われ、1183年に木曽義仲の重臣今井四郎兼平が布陣した「御服山」、および南北朝期の1362年に元越中守護桃井直常の先制攻撃を受けて敗れた加賀・越前の軍勢が逃げ登った「五服峯」(『太平記』第38巻)が、白鳥城の前身であったと推測されている。戦国後期には、射水・婦負郡守護代神保長職は富山城を築いて居城としたが、越後長尾氏の支援を受けた新川郡守護代の松倉城主椎名氏と抗争していた中で、富山城の出城として白鳥城を築いた。1562年の上杉謙信の越中侵攻に対し、長職は呉福山(白鳥城)に立て籠もった。この後、神保・椎名両氏が没落して上杉氏が越中東半を支配したが、1572年に加賀・越中の一向一揆が礪波郡より東進し、上杉方の日宮城を攻め落とした。この時、上杉方は日宮城への援軍を「五福山」に上げたが、一揆方の大軍に攻められ敗退した。1578年には神保八郎左衛門が白鳥城に居城したと言われる。1585年、豊臣秀吉に敵対していた富山城主佐々成政を討伐するため、秀吉は前田利家らを率いて越中に進軍した。この時、前田氏の部将岡嶋一吉・片山伊賀が白鳥城に入ったが、後に秀吉の本営となり、岡嶋・片山らは東麓の安田城大峪城へ移った。成政降伏後の1586年、利家は3人の守将を白鳥城に置いた。1597年、前田利長が守山城から富山城の居城を移すと、再び岡嶋・片山らを「呉福山堡」(白鳥城)に置いたが、岡嶋・片山らは後に安田城に移り、白鳥城を詰城とした。廃城時期は不明だが、少なくとも1599年までは存続していたらしい。

 白鳥城は、神通川西方に横たわる呉羽丘陵の最高峰の城山(標高145.1m)に築かれている。現在、城址公園として整備されている。訪城した日は車道の一部が工事中で通行できない区間があったため、南駐車場から西出丸を経由して訪城した。最高所にほぼ方形の本丸を置き、その外周に2段の曲輪群を東・北・西の三方に配置した梯郭式の縄張りとなっている。更に東・北・北西・南の各尾根に張り出した出丸を築いている。本丸には櫓台が築かれ、北から西にかけて横堀が穿たれている。横堀は西二ノ丸の西側外周にも円弧状に穿たれ、そのまま南尾根を掘り切っている。堀切はここと、北西に配置された北二ノ丸、本丸西側の二ノ丸、その下方の三ノ丸にそれぞれ穿たれている。この城で出色なのは各所に築かれた枡形虎口で、二ノ丸の北側下方や西一ノ丸越曲輪の北側下方に出枡形が構築されている。しかし残念なことに、いずれの遺構も未整備の薮に覆われており、きれいな形を写真に納めることができない。
 白鳥城は、中心的な曲輪は整備されているが、腰曲輪群はほとんど薮に埋もれてしまっている。しかしそれでも頑張って踏査すれば、枡形虎口による導入系の築城技術が多い城であることがわかる。今石動城など前田氏構築の山城を見ると、これらの遺構は前田氏による構築ではなく、秀吉が本陣を置いた際に改修されたものと考えるのが妥当と思うが、どうであろうか?
西二ノ丸の円弧状横堀→DSCN1676.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(薮が多い分☆一つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.697974/137.163963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

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