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天神山城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN1952.JPG←主郭の櫓台
 天神山城は、魚津城攻防戦の際に上杉景勝が後詰に入った城として知られる。元々、1554年に上杉謙信が松倉城の支城として築城したとされる。史料上では1572年から天神山の名が見えている(『上杉家文書』)。この年、越中・加賀の一向一揆が砺波郡より東進して、上杉方の最前線日宮城を攻め落とし、更に富山城をも占拠した。この時、上杉諸将間の緊迫した往復文書の中に「天神山」が度々現れ、天神山城が新庄城と共に上杉方の重要な中継拠点であったことが知られている。当時、天神山城には上杉氏重臣直江景綱が、新庄城には鰺坂長実が在城し、日宮城将からの注進は、最初に新庄城の鰺坂氏に、次いで天神山城の直江氏へ伝えられ、そこから越後春日山城へと伝達されている。次に天神山城が歴史に現れるのは、1582年の魚津城攻防戦の時である。謙信没後の内訌「御館の乱」で大きく勢力を減退させた上杉氏に対して、柴田勝家を総大将とする織田勢の北陸方面軍は加賀・能登を攻略、更に越中に進撃した。1582年3月下旬頃、松倉城と並ぶ越中東部の上杉方の一大拠点で、中条景泰ら12人の武将が立て籠もった魚津城を織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らが攻撃し、以後激しい攻防が数ヶ月にわたって繰り広げられた。しかし揚北衆の新発田重家の反乱で苦境にあった上杉景勝は、なかなか援軍を出すことができず、4月23日に魚津城将12人が景勝の執政直江兼続に送った決別の書状を見るに及んで、不利を承知で5000余人を率いて出陣し、5月15日に天神山城に後詰として着陣した。この動きを知った織田方は5月下旬、旧武田領の上野を支配した滝川一益と、信濃川中島4郡を支配した森長可とが、それぞれ越後への侵攻を開始した。特に森軍は景勝の本拠春日山城を目指して進軍しており、急報を受けた景勝は5月27日、やむを得ず春日山城に向けて撤退した。魚津城の城将12人は、降伏を肯んぜず、織田勢の猛攻に力戦して一人残さず討死し、6月3日に魚津城は落城した。それは、本能寺の変の翌日のことであった。その後の天神山城の歴史は不明である。

 天神山城は、片貝川北岸の河岸段丘上の独立丘陵、標高162.9mの天神山に築かれている。現在城内は公園化され、また城内に魚津歴史民俗博物館が立てられ、車道が敷設されるなど、大きく改変を受けている。山頂に東西に長い主郭を置き、その西側に一段低く二ノ郭を配置している。主郭の南辺には櫓台とそれに続く長い土塁が築かれている。主郭の東側は尾っぽのように長く伸びて降り、駐車場となっている平場に繋がっているが、改変があるため往時の形状は不明である。二ノ郭の北から西にかけて数段の腰曲輪がある。また主郭・二ノ郭の北側斜面には散発的に竪堀が穿たれている。北東の車道下の草木に覆われた斜面には多数の腰曲輪群が築かれ、それらの西端部を画する様に竪堀が落ちている。この竪堀は、途中で一度横堀に変化し、更にまた竪堀に変化して落ちている。この他、東尾根と南斜面にも腰曲輪群がある様だが、当日は天候不順かつ凍えるような寒さだったので、踏査しなかった。これらについてはまた機会を改めて確認してみたい。
 天神山城は、概ねの遺構はよく残っているものの、残念ながら改変のため、どこまで往時の形を残しているのか不明な部分も多く、少々残念な状態である。
竪堀→DSCN1971.JPG
DSCN1921.JPG←北東斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.825200/137.450230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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