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明知城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0847.JPG←北東斜面の畝状竪堀
 明知城は、白鷹城とも言い、岩村城主遠山氏の庶流明知遠山氏の居城である。遠山氏の祖は、藤原利仁の後裔加藤氏とされる。加藤景廉は、源頼朝が伊豆石橋山で挙兵した時より仕えて、鎌倉幕府創業の功臣の一人となった。1185年、頼朝は景廉を美濃国遠山庄の地頭とし、景廉は嫡男左衛門尉景朝を遠山庄に入部させ、岩村城を築いた。この景朝が遠山氏を称し、美濃遠山氏となった。1247年、景朝の子三郎兵衛尉景重が明知城を築いて明知遠山氏の祖となったとされる。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が東濃の恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。この上村合戦で明知遠山景行は討死した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。明知遠山氏は、景行の嫡男景玄も討死したため、孫の一行が継いだ。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。この時、勝頼は一夜城に陣を構えたと伝えられる。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。明知城主遠山一行は城から脱出した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となった。一行と叔父の遠山利景は、この戦いの中で武田軍が占拠していた小里城を攻め落とした。織田軍が明知城を奪回すると、一行・利景は明知城に帰還した。また半年の籠城戦の末に恵那郡の重要拠点・岩村城も陥落し、東濃は完全に織田方の支配下に入った。1582年の本能寺の変後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可の勢力下に入ることとなり、1583年に一行・利景は徳川家康を頼って三河に落ち延びた。1584年3月、羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、一行は家康の命を受けて舅の延友佐渡守と共に緒戦で明知城を攻略した。しかし合戦後、東濃は森領とされ、明知城は森氏に明け渡された。1600年の関ヶ原合戦の際には、明知城は岩村城主田丸直昌の支城となっており、その家臣山川佐之助・原土佐守が守っていたが、家康の命を受けた遠山利景・方景父子は明知城を攻略し、更に岩村城も落城させた。この戦功により、利景は明知城主に復帰した。1615年の元和の一国一城令で明知城は廃城となり、新たな支配拠点として山麓に明知陣屋が造営された。

 尚、現在地元では明知城を明智光秀にまつわる城として紹介している。これは、遠山景行が実は明智光秀の叔父光安と同一人物で、光安が遠山景成に入嗣したとする説による。その説によれば、元々明知遠山氏は景成の兄弟の直景が家督を継いでいたが、直景は室町幕府奉公衆で、堀越公方が成立するとその奉公衆に転出していたが、伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)の伊豆計略の中で、同じ幕府奉公衆出身であった宗瑞に仕えてその重臣となった(小田原北条氏の重臣、家老遠山氏の成立)。そのため直景は本領の明知城を親族に引き渡して伊豆に移ったので、その後を継いで明知遠山氏の当主となったのが土岐明智家から入った景行であるとするものである。これに関しては現時点では明証がないため、史実かどうかは明確にできない。

 明知城は、岩村城などとともに何度も争奪の場となった城だけあって、守りが極めて厳重な、屈指の縄張りを有している。本丸を中心にして周囲に腰曲輪を廻らし、南東に二ノ郭、西に三ノ郭を張り出させ、更に二ノ郭の南西に出丸を突出させている。これが城の中心部で、これらを取り巻く様に北~東~南の外周に横堀が穿たれている。この横堀の防御線には要所に竪堀が穿たれ、また外側には腰曲輪群も構築されている。竪堀は配置が巧妙で、いずれも竪堀を上った先には上の曲輪の塁線がそびえており、侵入してきた敵を迎撃できるように効果的に配置されている。殊に東の搦手駐車場からの登道は、横矢掛かりと正面櫓台による防御が厳重であり、大手から搦手まで寸分の隙もない。出色なのは、主郭北東から北西の斜面にかけて穿たれた畝状竪堀ある。ここの畝状竪堀は、他の城で見られるものと構造が異なり、竪堀間に構築された中間土塁は、単なる土塁ではなく物見台または独立堡塁として機能するように高く盛られている。一部の中間土塁には腰曲輪まで築かれていて、兵を置くことを前提として築かれている。ここの畝状竪堀は、傾斜の緩い斜面を防御するために集中配置されている。この畝状竪堀を上から見下ろす位置に主郭腰曲輪が配置され、より防御性を増している。出丸の南東側にも畝状竪堀が穿たれているが、二重横堀の間の土塁に竪堀を穿っていて、初めて見る特殊な形態をしている。三ノ郭の西側には、深い堀切で区画された独立堡塁が2つそびえて周囲を睥睨している。更にこの他にも北・東・西・北西に張り出した尾根に曲輪群を築き、基部を堀切で分断している。北の曲輪群では、先端近くにL字形土塁による坂土橋の通路が築かれている。二ノ郭の南下方の腰曲輪には、2槽構造の大きな貯水池もあり、これも非常に珍しい遺構である。明知城は、度重なる攻防の中で、武田氏による縄張りの改修増強を受けたものと思われ、必見の城である。
別角度から見た、同じ畝状竪堀→DSCN1015.JPG
DSCN0820.JPG←堀切と独立堡塁
貯水池跡→DSCN0917.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.303577/137.394633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

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