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荒河置山城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0674.JPG←大手郭側方の畝状竪堀
 荒河置山城は、歴史不詳の城である。『片山文書』によれば、南北朝期の1339年、船井郡和知の地頭片山忠親が「安良賀城」を攻め落としたとあり、この安良賀城が荒河(置山)城のことであろうと推測されている。一方、『丹波志』には城主として山吹将監・荒河伊達右衛門などの名が見えるが、詳細は不明。また現地の遺構には小規模な畝状竪堀があることから、少なくとも戦国期の城と考えられ、八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の弟)が黒井城主赤井直正と戦って大敗・討死した、1565年の和久郷合戦に関係した城砦であったかもしれない。

 荒河置山城は、由良川と和久川の合流点西側の、標高102.4m、比高87m程の丘陵上に築かれている。南麓に武神社があり、そこから登っていくことができる。南尾根を進むと、段々になった曲輪群が見られ、更に登っていくと山頂の主郭群に至る。主郭群は主郭を中心に5段ほどの同心円状に段差だけで区画された平場で構成されている。主郭には方形の高台があり、天守台かそれに準ずる櫓台があったものと考えられる。大手は北東にあったと考えられ、主郭群最下段の曲輪(大手郭)には、前面に低土塁があり、下に2段程の段曲輪が構築され、その先に堀切が穿たれている。また大手郭の両側方には小規模な畝状竪堀が確認できる。一方、主郭群の北西下方には物見台があり、その下に土橋の架かった堀切が穿たれ、北西出曲輪に繋がっている。この他、南西麓の時広大明神付近も平場が見られ、城域であった可能性がある。また南東の尾根にも出曲輪があり、頂部の曲輪は横堀で防御している。しかし後で調べたら古墳だったようなので、この横堀は元々古墳の周濠であったのかもしれない。荒河置山城は、未整備の山であるが藪は酷くはなく、遺構が良く確認できる。
北西出曲輪への堀切・土橋→IMG_0708.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.316832/135.108061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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新庄城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0554.JPG←堀切bに繋がる横堀
 新庄城は、歴史不詳の城である。横堀の発達状況から、戦国中期の内藤宗勝時代の改修が推測されている。尚、福知山市域には多数の中世城郭がひしめいているが、市街地の西方に当たる和久川流域も城郭密集地帯で、7km程の地域に新庄城を含めて大小22もの中世城郭が並び立っている。

 新庄城は、和久川西岸の標高50m、比高30m程の丘陵先端に築かれている。先端に粟島神社があり、そのすぐ裏がもう城域で、神社左手の裏から小道が付いている。『図解 近畿の城郭Ⅱ』と現地解説板で縄張図は同じだが、曲輪の呼称番号が異なる。ここでは現地解説板に従って呼称する。城域は大きく3つの区域に分かれ、一番北の先端曲輪群(Ⅲ郭~Ⅴ郭)、堀切aを介して南西曲輪群(Ⅰ郭~Ⅱ郭)、それと本城からやや離れた南出曲輪(Ⅵ郭)である。先端曲輪群は切岸だけで区画された曲輪群で、Ⅲ郭背後には大きな櫓台が築かれている。その背後は堀切で分断されている。南西曲輪群は、細長いⅡ郭とその上のⅠ郭から構成されている。Ⅱ郭の南側には小規模な横堀があり、横堀の東端は直角に曲がって竪堀となって落ちている。Ⅰ郭も背後を土塁で囲んでおり、北側に腰曲輪を置いている。Ⅰ郭背後には堀切bがあるが、直線的で単純な堀切aと異なり、北側で大きく折れて横堀となって廻り、先端で北に直角に曲がって竪堀となって降っている。その先には少々わかりにくいが二重竪堀が落ちている。要するに横矢掛かりの堀切となっているのである。南出曲輪Ⅵ郭は、背後に大土塁を築き、更に溝状の小二重堀切を穿っている。西側を小さな横堀で防御し、Ⅵ郭南端には小型の枡形虎口を築いている。遺構は以上の通りで、訪城が容易で、藪もそれほどひどくないので、中々楽しめる。
Ⅲ郭背後の櫓台→IMG_0472.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.305731/135.092139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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野田城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0444.JPG←二重堀切の内堀
 野田城は、歴史不詳の城である。背後に当たる南東の山上に狭小な白髪城があることから、砦の白髪城に対する本城であった可能性が指摘されている。

 野田城は、由良川南岸にそびえる標高160m、比高110mの山上に築かれている。城跡は井根山公園となって改変を受けている。普通、公園化された城址は、山頂近くまで車道が伸びているものだが、ここは車道がないので山麓から歩いて登らなくてはならない。というわけで、歩道が整備されているとは言え、「公園」にしてはしっかりした登山をしなければならない。登っていくと、山の西尾根に段曲輪状の小平場が散見されるが、登り道で改変されているので遺構かどうかはっきりしない。途中、山をぐるりと巡る幅広の遊歩道を突っ切ってその先の階段を登ると、主郭に至る。山頂の主郭東端には井根山秋葉神社が建っている。主郭は幅の狭い東西に細長い曲輪であるが、これもかなり改変されている。主郭後部に一段低く二ノ郭があるが、これも公園化で改変されている。ところが二ノ郭の東尾根に、突然のように二重堀切が現れる。ここから落ちる竪堀は南に長く降っている。また主郭と二ノ郭の付け根部分から南斜面へも、竪堀が1本落ちている。明確なのはここまでで、それ以外の縄張りは不分明である。解説板はおろか、城址標柱もなく、神社の縁起解説板にも野田城のことは一言も触れられていない。非常に残念な、忘れられた城となってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.288341/135.267920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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綾部陣屋、附・綾部城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0374.JPG←保育園北面の急斜面
 綾部陣屋は、江戸時代の九鬼氏の陣屋である。戦国時代、この地の本宮山には八上城主波多野秀治の部将江田兵庫頭行範が1565年頃に築いた綾部城があった(本宮山は、現在は大本教団の聖地になっており、登ることができない)。江田氏は、南北朝時代に南朝軍の総帥であった新田義貞の有力な一族で、太平記にも名高い江田兵部大輔行義の後裔とされる。1579年、織田信長は波多野氏討滅のため、明智光秀の援軍として丹羽長秀・羽柴秀長らを丹波に進撃させた。綾部城は、但馬から侵攻した羽柴秀長により落城し、行範は氷上郡に逃れ氷上郡の城で討死にしたと言う。その後は明智光秀の持ち城となり、光秀滅亡後は羽柴(豊富)秀吉の支配下となった。1515年、大坂の役の軍功により別所豊後守吉治が2万石で入部したが、1628年、遊猟が過ぎるとして改易となった。その後1633年に、九鬼水軍で名高い鳥羽藩の3男九鬼隆季が御家騒動から丹波綾部に2万石で転封となり、綾部藩を立藩して改めて綾部城の西麓に陣屋を構えた。この陣屋も1650年に火事で全焼し、幕府の許可を得て台地上に移城して再建された。そのまま幕末まで存続した。

 綾部陣屋は、この最後の台地上に築かれた陣屋で、せんだん苑南保育園から綾部幼稚園にかけての一帯にあったと言う。比高10m程の段丘となっており、市街化が進んで往時の面影はないに等しいが、北面に往時の切岸跡と思われる急斜面が確認できる。この斜面下には、用水路と若宮清水と呼ばれる井戸が残っており、往時の遺構であるかもしれない。保育園の西側の坂道は大手坂と呼ばれたが、大正6年の貞明皇后行啓の際に、御召の馬車が通行できるように切り下げ工事を行って改変してしまったということである。この道路沿いの保育園壁面に、「綾部城大手門跡」の看板が建っている。
野田城から見た綾部城(本宮山)→IMG_0402.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.295767/135.257277/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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上杉弾正屋敷(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0344.JPG←屋敷跡にある上杉天満宮
 上杉弾正屋敷は、足利家の姻族上杉氏の一族、上杉弾正少弼朝定の館である。上杉氏については上杉氏発祥地の項に記載する。朝定は、扇谷上杉氏の祖、上杉重顕(足利尊氏の叔父に当たる)の子で、上杉氏発祥の地であるこの地に屋敷を構えたと伝わっている。朝定は、一時期丹後守護を務め、尊氏が後醍醐天皇の供養のために建立した天龍寺の落慶法要の際にも、随行した幕府諸大名の中にその名が見える(太平記)。観応の擾乱では、多くの上杉一族と同様、足利直義に従ったが、1352年に死没した。

 上杉弾正屋敷は、現在の上杉天満宮の付近一帯にあったという。わずかな微高地となっている以外に、明確な遺構は確認できない。屋敷があったと言っても、おそらく朝定はほとんど足利尊氏・直義の近くにいて在京していることが多かったはずで、実際にここに居住していたことはほとんどなかっただろう。どちらかと言うと、祖先伝来の地上杉庄の支配拠点として、朝定の名で政庁機能(陣屋)が置かれたものではなかったかと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.359770/135.320621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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特別企画展「中世宇都宮氏」 [雑感]

toku_utsunomiya.jpg
栃木県立博物館(通称、ケンパク)でやっている、「中世宇都宮氏」っていう特別企画展がすごいです。
国宝・重文の出展多数で、質・量ともにすごいので、2時間じゃ全然見きれず、閉館になってしまったほどでした。

宇都宮市ではこれまで、江戸時代の宇都宮城主(家康の重臣本多正純とか、戸田氏とか)のことばかり取り上げてきていて、北関東屈指の名族宇都宮氏をほとんど無視してきたような状態でしたが、ここに来てようやくこうした大規模な企画展が開催されたのは嬉しい限りです。

これだけの質・量の出展が、たったの1200円で堪能できるなんて、都内の博物館じゃ考えられない話です。おまけに都内なんて、参観者だらけで展示物をゆっくり見ることもできないし。

出展物は、単に宇都宮氏に直接絡むものだけでなく、小田原北条氏関係や、それこそ何の関係があるんだ?的な真田まで網羅されているので、カバー範囲もとても広いです。
中世史好きには堪らない内容で、ものすごいオススメなので、都合つく方はぜひ足を運んでみて下さい。

それにしても、法然・親鸞の宗教活動にこれほど宇都宮氏が深く関わっていたとは、今回の展示会とその解説を聞くまで知りませんでした。

http://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/kikaku/170916utsunomiyashi/index.html
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上林城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0298.JPG←天守台?の石垣
 上林城は、生貫山城とも言い、上林谷一帯を支配した豪族上林氏の居城である。上林氏は、黒井城主赤井氏の庶流で、足利尊氏に従って軍功を挙げた赤井秀家が、何鹿郡上林庄に入部して上林氏を称したと言う。上林城は、戦国前期の天文年間(1532~55年)に、上林下総守晴国によって築城され、以後その居城となったとされる。この頃が上林氏の最盛期であったらしく、1533年の光明寺再建奉加帳には上林一族11名が有力施主として名を連ねた。戦国後期になると、明智光秀勢の上林庄侵攻などにより上林氏の勢力は弱まり、結局はこの地からの退転を余儀なくされた。上林氏の一流は、戦国前期より山城国宇治で茶業にたずさわっており、後に宇治の茶舗上林家として有名になった。上林氏退転後、1601年に藤懸永勝が上林庄に6000石で入部して、上林城下に陣屋を築いて幕末までこの地を治めた。

 上林城は、上林川南岸の標高199.3m、比高60m程の古城山に築かれている。城跡は公園化されており、主郭まで車道があるので一部破壊を受け、改変されている部分が多いが、城の形は概ね辿ることができる。山頂に主郭を置き、東下方に東曲輪、更にそこから降る形で主郭北斜面に馬掛曲輪という名の幅広の腰曲輪が築かれている。その他には、南尾根に南曲輪、南西尾根に西曲輪が築かれている。また馬掛曲輪から南に1段下がった腰曲輪には井戸跡が残っている。馬掛曲輪から西に降る尾根にも北西曲輪があるらしいが、未整備なのと雨天だったため未見である。いずれの遺構にも目新しさが無く、技巧性も感じられないが、主郭にだけ後部に天守台とも考えられる大きな土壇があり、その前面には石垣が築かれている。改変が多いせいもあって、全体的にはあまりパッとしない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.359735/135.406601/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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余部城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0227.JPG←主郭の堀切の跡地
 余部城は、丸岡城とも呼ばれ、八上城主波多野氏の傘下にあった福井因幡守貞政の居城である。歴史上初めて余部城が現れるのは、15世紀の応仁の乱の時で、東軍の軍事拠点であった。東軍の主将細川勝元の京兆家は丹波守護を兼帯していたので、京都西方の支援拠点としたものであろう。戦国後期の天正年間(1573~92年)には、波多野氏が強勢をもって丹波南半をほぼ手中にし、その傘下にあった福井貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われた。この頃の亀岡盆地には、大堰川右岸地域の河岸段丘上に国人領主たちがそれぞれの城郭を構えており、西から順に並河城・余部城(丸岡城)・荒塚城(中世亀山城)・古世城・馬堀城がほぼ等間隔で築かれていた。明智光秀は織田信長の命を受けて丹波に侵攻し、1577年、貞政が降伏勧告を拒否したため宇津根・雑水川・安行山の三方から余部城を攻撃し、貞政以下の城兵は自刃し、余部城は落城した。

 余部城は、曽我谷川北岸の比高10m程の段丘先端に築かれている。先端に主郭、その西側に縦長の二ノ郭があったと推測されているが、現在は宅地化で遺構はほとんど湮滅している。主郭には「古城」「政所」の地名が残っており、それから推察すると、主郭北半には政庁機能があったらしい。また江戸時代の記録によれば、主郭には原初的な天守が築かれていたらしい。二ノ郭には「古城浦」の地名が残るが、これは古城裏の転訛であろうか。2000年頃までは、主郭と二ノ郭の堀切の痕跡が残っていたらしいが、その後の宅地開発でこれらのわずかな痕跡も失われてしまった。地名以外では、西岸寺前の城址石碑と解説板だけがその名残を伝えているに過ぎないのは、極めて残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.018865/135.571203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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古世城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0212.JPG←往時の切岸と思われる擁壁
 古世城は、丹波亀山城の築城以前にあった、歴史不詳の城である。城主は菱田介次郎という武士であったとされる。中世の亀岡盆地には、大堰川右岸地域の河岸段丘上に国人領主たちがそれぞれの城郭を構えており、西から順に並河城・余部城(丸岡城)・荒塚城(中世亀山城)・古世城・馬堀城がほぼ等間隔で築かれていた。菱田氏は、明智光秀の丹波侵攻によって滅亡し、その後の亀山城築城によって、その惣構の一角に取り込まれることとなったと推測される。

 古世城は、丹波亀山城の惣構東端の京口番所付近に築かれていた。往時は主郭・二ノ郭・三ノ郭と坤郭(蔵屋敷)の4郭があったとされ、西側に空堀、東から南にかけては水堀で防御していた様である。現在、二ノ郭が昌壽院となっているほかは、宅地化で改変され、城の形を追うことはほとんど困難である。わずかに東側に擁壁に変貌した切岸があり、河岸段丘上に築かれていた地勢を残しているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.008373/135.590386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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亀山城惣構え(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0159.JPG←宗福寺裏の土塁
 丹波亀山城は、幕末まで存続した丹波口を押さえる重要拠点の城だっただけあって、総構えが構築されており、その一部が残存し史跡指定されている。最近では「丹波亀山城惣構跡保存会」という団体がその啓蒙活動を行っており、その資料を参照しながら総構えを辿ってみた(資料は亀岡市のHPからダウンロードできる)。その中で、史跡指定されていない宗福寺裏の土塁が、最も良く旧状を残している。しかし内側の寺は閉まっており、また外側は畑地なので近づいて見ることができず、遠目に眺めただけであるが、立派なものである。この他、嶺樹院から宗堅寺にかけての裏側に残っている土塁・水堀跡の水路が遺構としてわかりやすいが、かなり改変を受けている様で、往時の規模よりかなり小さくなっていると考えられる。この他、「遠見遮断」と呼ばれる鉤の手の道路なども残っており、往時をわずかに忍ばせている。
嶺樹院~宗堅寺裏の遺構→IMG_0217.JPG

場所:【宗福寺裏の土塁】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.008303/135.579336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【嶺樹院~宗堅寺裏の土塁・水堀跡】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.007775/135.584421/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


図説 明智光秀

図説 明智光秀

  • 作者: 柴 裕之(編著)
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/12/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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東掛城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0098.JPG←2本土橋の架かる堀切
 東掛城は、長谷山城主赤沢加賀守義政の城であったと言われている。赤沢氏は、三好長慶の丹波入りを助けたと言われている。その後、石田氏がこの城に拠ったと言う。1577年、丹波攻略中の明智光秀が波多野氏の八上城を攻めた際、波多野方に加担していた播磨三木城の別所長治に備えるため、石田紀伊守長保を用い、石田氏は別所勢と戦ってこれを撃退するなど活躍したと言う。

 東掛城は、標高432m、比高182mの山上に築かれている。南麓に素戔鳴神社があり、その裏から尾根筋を登った。主郭に白玉竜王が祀られており、そこまでの登り道があったらしく、南尾根には踏み跡があるので、迷うこと無く城に到達できる。以下、遺構の符号は『図解 近畿の城郭Ⅲ』に従って記載する。比較的小規模な山城で、山頂にほぼ長円形の主郭があり、その周囲を腰曲輪が一周している。主郭と腰曲輪のそれぞれ東側だけ低土塁があり、その東に堀切Cが穿たれている。ここには両側に土橋が2本架かっている。その先に小郭があり、幅広の土橋が架かった小掘切で城域が終わる。一方、主郭の北西には、腰曲輪の下に二ノ郭があり、その下にも腰曲輪があって、その先に堀切Aが穿たれている。主郭下の腰曲輪からこの堀切までは、城内通路が良く残っている。堀切Aにも2本土橋が架かっている。その先に削平の甘い三ノ郭があり、先端を堀切Bで分断して城域が終わっている。大した城ではないが、堀切に架かった二ヶ所の2本土橋が特徴的である。尚、『図解 近畿の城郭Ⅲ』ではこれらを土橋ではなく「堀内障壁」としているが、変則的な土橋であろうと私は考えている。
主郭虎口と腰曲輪→IMG_0049.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.944761/135.544209/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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小家台城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

DSC09226.JPG←社殿周囲の平場
 小家台城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、後三年の役の際に、八幡太郎源義家がここに在陣し、戦勝祈願のために河井八幡宮を再建したと言う。
 小家台城は、那珂川南方の標高270mの山中にある。かなり山深い場所であるが、ここまで車道が伸びているので、簡単に訪城することができる。山頂に河井八幡宮が建っており、その周囲は平坦な平場となり、外周に土塁らしいものも見られるが遺構かどうかはわからない。また神社地以外にも、東側に一応曲輪らしい平場があり、何らかの城砦が構えられていた可能性はある。しかし普請の痕跡は不明確で、もし城があったとしても物見程度のものだったろうと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561540/140.210910/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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茂木城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

DSC09152.JPG←二ノ丸から見た堀切と本丸切岸
 茂木城は、この地の豪族茂木氏の歴代の居城である。宇都宮氏の一族で常陸の有力御家人、八田知家が軍功によって茂木保の地頭職に任命され、その後3男の知基が1192年に茂木に入部して茂木城を築き、茂木氏を称した。以後、治良まで16代の居城となった。南北朝期の5代知貞の時代に城の全容が完成したと言われ、茂木氏は一貫して北朝方として活躍した。7代知世の時が全盛期とされ、1381年の小山義政の乱でも軍功を挙げている。戦国時代になると、南から勢力を拡張してきた小田原北条氏に対抗するため、宇都宮氏と共に佐竹氏と結んだ。1585年には、北条氏の攻撃を受けて茂木城は落城したが、その後、佐竹義重によって奪回された。1590年の小田原の役で北条氏が滅亡し、豊臣秀吉から佐竹氏が常陸一国を安堵されると、茂木氏は完全にその家臣となった。1594年、茂木治良は佐竹氏の命によって常陸小川城に移り、その後は佐竹氏の家臣須田美濃守治則が茂木城主となった。1610年、細川興元(忠興の弟)が茂木に入ると、新たに平地に陣屋を構え、茂木城は廃城となった。

 茂木城は、逆川北岸にそびえる比高80m程の広い台地上に築かれている。広大な城で、中央の千人溜と呼ばれる窪地の周りに、南西に本丸、西に二ノ丸、北に三ノ丸、南東に出丸、北東に馬場を配置している。これらは、千人溜の周りをぐるりと囲むように高台上に曲輪群が連なり、しっかりした高さ5m以上の切岸でそびえている。城内の南側半分は城山公園として整備されている。本丸は北から西にかけて土塁で囲まれ、土塁上は幅が広く多門櫓などが建っていたと想像される。本丸西側には、堀切を介して馬蹄形曲輪が築かれている。二ノ丸は城主居館があったとされ、土塁のない平坦な平場で、現在は杉林となっている。三ノ丸・馬場は、未整備の藪に覆われ、進入できない。三ノ丸外周には空堀が穿たれ、空堀外周に土塁が築かれて、北の台地との間を切岸で区画している。本丸・二ノ丸・三ノ丸の間は、それぞれ幅の広い堀切で分断されている。一方、南東の出丸も、千人溜との間に堀切が穿たれているが、ここには横矢のクランクが見られる。この他、南斜面や東斜面に腰曲輪が廻らされている。以上が城の主要部であるが、城の北側の「館地区」も台地の上にあり、外郭として機能していたらしい。東側の館集落入口の小道はクランクしており、おそらく枡形虎口の跡と考えられる。外郭は広大な畑になっているので、それ以上の探索はできなかった。茂木城は、鎌倉時代から続く名族の城として、今でもその威容を誇っている。桜の咲くタイミングを見計らって行ったが、好天の中、桜吹雪を見ながらの城歩きとなり、最高の一日だった。
本丸西側の堀切と馬蹄形曲輪→DIMG_3252.JPG
DSC09044.JPG←出丸の横矢掛かりの堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.536959/140.184774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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彫堂七館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3168.JPG←長館の横堀
 彫堂七館は、歴史不詳の城である。古くは「七館八沢」と呼ばれていた。『余目記録』によれば、南北朝期の観応の擾乱の際、奥州管領として派遣されていた吉良貞家(足利直義方)・畠山国氏(足利尊氏方)の両者が中央の情勢に連動して争った時、長世保に拠った畠山氏に対して、吉良方に付いた大崎氏が色麻川(現・鳴瀬川)を隔てた鉢森に陣取り遠矢の合戦をしたと言う。この鉢森が現在の鉢谷森と考えられている。(但しこの伝承には少々疑問がある。大崎氏の初代斯波家兼は、直義方であった兄高経と袂を分かち、終始尊氏方として活躍した武将なので、直義方の吉良氏に付いたとは考えにくい。)いずれにしてもこの地は大崎領の東端に当たり、鳴瀬川対岸に進出した葛西・伊達氏に対する最前線であった。ちなみに葛西・伊達両氏は、北畠顕家の奥州府を支えた東北南朝方の主柱とも言うべき武将であったので、その観点からすれば北朝対南朝の図式でも捉えられる城である。一方、江戸時代にまとめられた『仙台領内古城書上』には彫堂城の記載が見え、伝承では蜂谷筑前守という武士が居城したとされている。現地解説板では、彫堂城は彫堂七館の一郭蜂谷森の別名であろうとし、蜂谷筑前守は大崎氏に関連した武将かもしれないと推測している。彫堂七館は、歴史不詳ながら、大崎氏によって築城された可能性が高いと推測されている。

 彫堂七館は、出来川北岸の東西に連なる比高15~30m程の丘陵上に築かれている。西から順に、山前館・長館・大館・小館・陣館・狼之介館・彫堂館(蜂谷森)・笹館の八館から成るとされる。八館なのに何故七館と呼ぶようになったのかは不明。全長で東西800m程にも及ぶ広い城域から成るが、基本的には単純な縄張りで技巧性には乏しい。小館・陣館・狼之介館・彫堂館の4つは公園化されており、このうち小館・彫堂館には北側半周を取り囲むように空堀が穿たれている。それ以外は単に頂部の平場の周囲に腰曲輪などが築かれているに過ぎない。また陣館・狼之介館の間には堀切があったとされるが、公園化による改変のためか、わからなくなってしまっている。大館は民家と畑になっており、外から見るしかできない。長館は、最も広い館で、主郭の全周を横堀で囲んでおり、更に周りに腰曲輪を築いているようだが、未整備の山林となっている。残りの山前館・笹館はいずれも民家裏の山林で、進入は憚られ、未踏査である。遺構を確認した限りでは、腰曲輪と空堀だけで横矢もなく非常に単純な縄張りで、まるでチャシの様である。南北朝期の城として見ても、少々見劣りする城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.539531/141.053274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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西館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2957.JPG←本丸切岸と水堀
 西館は、鶴頭城とも言い、また江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、不動堂要害と呼ばれた城である。元々は葛西氏の家臣有壁摂津守の城であったと言われ、葛西氏と大崎氏の抗争の場となった。また天文年間(1532~55年)には伊達天文の乱の余波で大崎小僧丸(義宣)が西館に立て籠もって養父大崎義直と争うなど、大崎氏の内訌の舞台ともなったと伝えられ、この時期には大崎氏の支城であったと言う。有壁氏は、金成町の有壁館を本拠とする土豪で、おそらくは大崎氏に備えるために葛西氏が有壁氏をこの地に置いて守らせたものが、その後の変遷で大崎氏の支配下に入ったと思われる。いずれにしても、葛西領・大崎領との接壌地帯にあった城館であった。1588年には、伊達氏の家臣で千石城主遠藤高康の攻撃を受けた。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易されると、その後の葛西大崎一揆を経て伊達氏領となり、1611年に後藤信康がこの地を拝領し、1620年に信康の子近元が西館に居城を移し、以後幕末まで後藤氏の居館として存続した。

 西館は、鳴瀬川北岸の小丘陵に築かれている。台形状の小丘陵に本丸を置き、その外周に水堀を廻らし、更に外側の低台地に二ノ丸を廻らした梯郭式の縄張りとなっている。本丸は現在、鶴頭公園となっており、かなり改変を受けているもののわずかに土塁や腰曲輪などが残っている。北側には堀底道のような歩道があるが、これも遺構であろうか?一方、水堀は南東部分のみが護岸工事をされた形で残っている。二ノ丸は、市街化で大きく改変されているが、辛うじて周囲よりわずかな高台になっていて、地勢を残している。感じとしては、佐沼城のミニチュア版と言った雰囲気である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.528268/141.078465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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涌谷城(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2919.JPG←北尾根の堀切
 涌谷城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、涌谷要害と呼ばれ、涌谷伊達氏(亘理氏)の居城である。元々は、奥州探題として勢威を誇った足利一門の大崎氏の庶流涌谷氏の居城であった。涌谷氏は、大崎氏初代家兼の3男彦五郎が百々城を居城として百々美濃守を名乗り、その2男が涌谷美濃守と称して涌谷氏の祖となったとも、或いは大崎氏5代満持の弟高詮が百々氏の祖となり、その2男直信が涌谷氏の祖となったとも言われる。いずれにしても大崎氏の一門として続いたが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、宗家大崎氏と共に滅亡した。その後、葛西大崎一揆を経て、伊達氏領となり、1591年に伊達氏重臣の亘理重宗に涌谷城が与えられた。重宗は最初、百々城に入り、翌年涌谷城に入城した。以後、涌谷城は近世城郭へと改修された。1604年に重宗は、隠居領として高清水城を与えられて移り、その子定宗が涌谷城主となり、1606年に伊達姓を与えられて、伊達一門・涌谷伊達氏となった。涌谷伊達氏は新田開発に努め、4代安芸宗重の時には石高2万2千石余に達したが、隣接する登米伊達氏との間で境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 涌谷城は、江合川西岸の南北に細長い丘陵上に築かれている。丘陵上は、2段の平場に分かれ、上段曲輪に涌谷神社が建ち、下段曲輪は公園化されているので、かなり改変を受けている。上段曲輪は近世には使用されていなかったようであるが、中世の主郭である。下段曲輪が近世の本丸で、南北に長い平場で伊達氏の居館が建っていた。中世ではニノ郭であった。その南端に、資料館となっている模擬天守と、現存遺構である太鼓堂という隅櫓が建っている。太鼓堂の周りの石垣も遺構であるそうだ。丘陵西側斜面に段が見られるが、これも往時の腰曲輪・犬走りの遺構であるらしい。この他、涌谷神社の北側に台地基部を分断する堀切が一部残存している。近世には、城下南側の平地に一之曲輪、東側に二之曲輪があり、水堀で囲まれていたが、現在は市街化で湮滅している。亘理要害同様、城の雰囲気は残しつつもかなり改変されてしまっているのは惜しいところである。
石垣と太鼓堂→IMG_2893.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.546496/141.130350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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日向楯(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2874.JPG←周囲の帯曲輪
 日向楯(日向館)は、歴史不詳の城である。現地標柱などによれば、古く天平勝宝年間(749~757年)に黄金奉行として入来した第獄日向守の居館であったと伝えられている。事実かどうかは確証がないが、日向楯やその近辺の「城山裏土塁」など古代(8世紀~12世紀末)の役所や公的施設があった可能性が高い遺構が確認されており、律令国家の北辺に位置する小田郡の重要地点として、天平産金に大きな役割を果たしていた可能性が推測されている。そうなると、東大寺の大仏造営と密接に関係していた遺跡ということになろう。

 日向楯は、比高40m程の山稜南端のピーク上に築かれており、現在は妙見社が建っている。山頂はほぼ平らに削平されており、周囲に帯曲輪が確認できる。標柱には西側に空堀跡があると書かれているが、確認できたのは帯曲輪だけで空堀は確認できなかった。いずれにしても、古代の古い施設であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.545791/141.137795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:古代平山城
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樫崎城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2798.JPG←主郭北側の空堀と櫓台
 樫崎城は、内館城とも呼ばれ、山内首藤氏の家臣男沢内膳の居城と伝えられている。永正年間(1510年頃)に七尾城主首藤貞通・知貞父子が、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の大軍の攻撃を受けた際、樫崎城も葛西勢の猛攻により落城したと言われている。

 樫崎城は、北上川西岸の標高34.5mの丘陵上に築かれている。南西の民家敷地に登り道が確認できるが、進入できないので、北西麓の鹿嶋神社裏手から登城した。最高所の主郭を中心にY字型に曲輪を配した縄張りとなっている。西郭は畑となっているが、主郭も含めたその他の曲輪は山林や耕作放棄地となっている。西郭から山林に入っていくと、すぐに西側の堀切に行き当たる。西側に土塁を築いた一直線状の堀切である。そこから更に東に進むと主郭周囲の広い腰曲輪に至る。ここは耕作放棄地であるが、藪が少なく開けている。ここからは南東郭群が段々になっているのがよく分かる。また東郭群は山林の中に段になった曲輪群が確認できる。主郭は、切岸で囲まれた方形に近い曲輪で、北側には横堀が穿たれ、中央付近にやや張り出した櫓台が築かれ、空堀がその周りで屈曲して横矢が掛かっている。この他、前述の西堀切よりも南東側斜面に竪堀が1本落ちている。なだらかな丘陵上の城で、比較的旧態依然とした縄張りなので、大軍に攻められたらひとたまりもなかったろうと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.564853/141.290982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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沢山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2760.JPG←主郭と思われる寺崎八幡神社
 沢山城は、寺崎城とも呼ばれ、葛西氏の家臣寺崎氏の居城である。伝承では、元は奥州藤原氏の部将西條氏の居城であったとされる。寺崎氏は、奥州千葉氏の一族とも、或いは葛西氏の一族とも言われ、下総国葛西庄が本貫地であったが、葛西氏に従って奥州に下向し、桃生郡に沢山城を築き、代々葛西氏の重臣を務めた。戦国時代の1507年、金沢城主金沢冬胤が葛西氏に対して反乱を起こすと、寺崎下野守時胤は日形城主千葉秀胤らと共に金沢を攻めて討死した。五郎三郎重清(時継)が寺崎氏を継いだが、千葉秀胤も討死したことで峠城が空き城となり、寺崎氏は峠城を押さえて本拠を移した。一方、沢山城には一族の寺崎伊予守を残したらしい。その後の沢山城主寺崎氏の事績は不明である。

 沢山城は、標高20m程の八幡山と呼ばれる丘陵上にあり、現在は寺崎八幡神社の境内となっている。縄張図もないのでよく分からないが、神社が建っているのが主郭らしい。その南側に一段低い平場が広がっているが二ノ郭であろうか?特に堀切などの明確な城郭遺構は確認できず、どこまで城域が広がっていたかもわからないが、宮城県遺跡地図では八幡山全体が城跡であったとしている。しかし八幡神社の東側は、壊滅的な乱開発で地形が変形してしまっており、遺構は望むべくもない。以前は八幡神社の参道下に城址標柱があったようだが、それも今はなくなってしまっている。非常に残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.569886/141.259353/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中津山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2740.JPG←宅地脇の土塁跡?
 中津山城は、江戸時代に仙台藩の内分支藩である中津山藩の陣屋が置かれた城である。正確には、元和の一国一城令で築城が制限されているので、「城」ではなく中津山「所」(「要害」より一段下のランク)である。元々は室町期に葛西氏の家臣中津山長四郎の居城であったとされる。江戸中期の1695年、仙台藩4代藩主伊達綱村は、水沢伊達家の当主であった同母弟・伊達村任を桃生郡中津山ほか3万石に分知して、新たに中津山藩の立藩を幕府に申請し、認められた。中津山藩主となった村任は、名を村和に改め、中津山城を藩庁としたが、4年後の1699年、不祥事があって改易となった。わずか1代4年の短命の藩であった。結局、村和は藩主在任中、一度も中津山城に入ること無くその座を追われたと言う。尚、1723年に黒沢俊栄が中津山三千石の領主となると、旧中津山城の1郭に居館を構えた。

 中津山城は、「城内」と言う地名の比高10m程のなだらかな丘陵西端に築かれている。城内は宅地化され、遺構はほとんど失われている。城域西端に白鳥神社が建っているが、往時の城鎮守の社であろうか。丘陵を東西に貫通する車道の南側の宅地に土塁らしい跡が見られ、丘陵最高所には方形に近い形の空き地があり、ここが往時の本丸であろうと思われる。この他に枡形が残っているらしいが、周りが宅地で囲まれており、よく確認することができなかった。城の期間が短かったせいか、非常に残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.559786/141.251736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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神取山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2713.JPG←主郭跡に建つ神社
 神取山城は、豊臣秀吉の派遣した奥州仕置軍に抵抗した葛西勢の最後の抵抗拠点である。城主は、岡野伊勢長満、鈴木山城守ら葛西氏の家臣と言われている。葛西晴信は、1590年の小田原の役に不参したため、秀吉の奥州仕置によって改易された。しかし葛西氏とその家臣団は各地の城に立て籠もって抵抗し、秀吉の派遣した蒲生氏郷・木村吉清らの奥州仕置軍と戦った。しかし多勢に無勢で敗れ、葛西総大将大原飛騨守胤重と精強1700騎は神取山城に立て籠もり、最後の抵抗をしたと伝えられている。

 神取山城は、旧北上川と江合川の合流点東側の標高57mの独立丘陵に築かれている。現地解説板によれば、山頂に主郭、南西の尾根に二ノ郭があったとされる。しかし主郭は浄水場が造られて破壊を受け、残りの部分は本鹿島神社となっている。平場以外に明確な遺構は見られない。また二ノ郭とされる場所も自然地形で、やはり明確な遺構はない。解説板にも『日本城郭大系』にも空堀があると記載されているが、どれがそうなのかよくわからなかった。結局、明確な城址遺構は確認できず、葛西勢は最後に悪あがきで山に立て籠っただけだったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.530568/141.231265/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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釣ノ尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2593.JPG←主郭の天守台
 釣ノ尾城は、山内首藤氏の支城である。城主は、七尾城主首藤義通の弟山内左馬之介であったと伝えられる。山内首藤氏が葛西氏に滅ぼされると、山内氏は葛西氏に仕えたと言う。葛西大崎一揆の後、この地が仙台伊達藩領となり、更に天下の治世が徳川幕府のものになると、野望を捨てきれない伊達政宗は、幕府軍と戦って敗れた伊達藩の最後の決戦場として、この釣ノ尾城を想定していたとも伝わっている。

 釣ノ尾城は、北上川南岸の標高76mの八幡山に築かれている。北側斜面の中央に僅かな小道が付いており、そこを登っていくと前面の帯曲輪群に至る。この城は山頂の北側に広い二ノ郭を置き、背後に幅広の浅い堀切に幅広の土橋が架かって、南側に主郭が置かれている。二ノ郭の前面には前述の通り5~6段の帯曲輪群が築かれているが、斜面の形状が中央が内側に凹んだ形状になっているため、中央部は数段のみ、張り出した両翼は更に数段の帯曲輪が築かれた構造となっている。主郭は円形の平場で、中央には天守台が築かれ、部分的に石積みが見られる。主郭周囲と背後の尾根にも帯曲輪群が築かれ、その下方の南尾根には2条の小堀切が穿たれている。この城には、大きな大手道が作られており、二ノ郭背後の帯曲輪から北西の斜面に向かって降っている。大手道の下方には側方に竪堀を穿った防御構造がある。その下は、麓の神社裏に当たるが。斜面が削れており、大手道は消滅している。
 釣ノ尾城は、比較的小規模で簡素な縄張りの城であるが、普請はしっかりしている。特に広い大手道や石積みの天守台など、この規模の城には不釣り合いな、戦国末期から近世頃の新しい構造が見られる。政宗が最後の決戦場と想定していたとの伝承は本当だったのかもしれない。
天守台の石積み→IMG_2604.JPG
IMG_2645.JPG←主郭背後の尾根の曲輪群と堀切
大手道→IMG_2682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.534680/141.388915/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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吉岡城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2517.JPG←南東の隅櫓台
 吉岡城は、伊達政宗の3男河内守宗清が築いた近世城郭である。宗清は1613年に下草古城に入部して二重の堀を持った平城として整備したが、下草古城は川沿いの低地のため水害に見舞われることが多く、1616年に新たに吉岡城を築いて居城を移した。一般的に「吉岡城」と呼称されるが、実際には元和の一国一城令により、「城」ではなく「所」(「要害」より一段下のランク)であった。宗清が1634年に35歳の若さで病没すると、吉岡伊達氏は無嗣断絶となり、1662年には奥山氏が入り、1757年には仙台藩の要職の地位にあった但木土佐顕行が東磐井郡からこの地に転封された。以後、但木氏の居城として幕末まで存続した。

 吉岡城は、善川と吉田川に挟まれた台地上に築かれた平城である。市街化で遺構の湮滅が進み、往時の縄張りを明確に把握するのは困難だが、南の隅櫓台が2ヶ所残存している。その内の西側の隅櫓台は城内大堤公園に隣接し、公園西側にはこの櫓台に繋がった土塁が残っている。公園に模擬櫓台があるので、ここが城跡だと勘違いしてしまうが、実際には公園の東側の畑・民家が城跡である。公園は、かつての庭園であったらしい。本丸は隅櫓台のある平場よりもう少し北にあったらしく、保健福祉総合センター敷地の南入口付近に城址標柱が建っている。大和町の中心に位置する街中の平城のため、壊滅的な状況だが、隅櫓台がしっかり残っているだけでも良しとすべきか。
 尚、伊達宗清とその養母であった飯坂の局の墓が天皇寺に残っている。縦長でスリムな、珍しい形の五輪塔である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.446338/140.879617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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蟻ヶ袋城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2483.JPG←民家脇に残る土塁
 蟻ヶ袋城は、大崎氏の家臣熊谷玄番の居城と伝えられている。歴史の詳細は不明であるが、1588年の大崎合戦の後始末でその名が現れる。即ち、折からの大雪で大敗した伊達勢の将、泉田重光・長江月鑑斎は、和睦の条件として大崎氏の人質となり、この城に幽閉された。その経緯と後日譚は、小野城の項に記載する。一方、蟻ヶ袋城主の熊谷氏は、葛西大崎一揆の際に討死したという。

 蟻ヶ袋城は、鳴瀬川南岸の平地に築かれている。現在は宅地となっているが、宅地の周囲に大土塁が残り、宅地の前は一段低く堀跡と考えられる。場所は間違いないのだが、土塁の隣家の住民に訊いてみたが城があったことをご存じなかった。周囲を歩いてみたが、土塁は残っているもののだいぶ改変を受けているようだった。以前は土塁上に標柱があったようだが、朽ち果てたのか見当たらなかった。戦国末期の歴史に現れる城なのに、少々残念な状態である。城址が民家だから仕方ないところだが。
堀跡らしい窪地→IMG_2485.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.522006/140.921137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御所楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2223.JPG←4郭外側の横堀
 御所楯(御所館)は、大崎氏の庶流黒川氏の初期の居城である。黒川氏の事績は、鶴巣楯の項に記載する。

 御所楯は、比高50m程の馬蹄型の山稜に築かれている。西側外郭部を東北自動車道が貫通しており、一部破壊を受けているが、幸い城の主要部は無傷である。鶴巣楯と同様、多数の曲輪群から成る城で、『図説 中世城郭事典』所収の縄張図によると、主要な曲輪だけで23郭まで記載されている(この内、17~23郭は高速道路で消滅している)。南に開いた馬蹄形山稜の北の頂点に主郭を置き、そこから東尾根と西尾根に曲輪を直線的に連ねているのが基本構造である。2郭には石神神社が鎮座している。主要な曲輪間は基本的に切岸や土塁で区切られ、堀切の数は多くない。堀切は尾根の末端付近の曲輪部分に穿たれている。また馬蹄形に連なった主郭~4郭の外側には、切岸の下に延々と横堀が穿たれ、更に外側に腰曲輪が廻らされている。ここには上方の5郭の張り出した塁線上から横矢が掛けられている。土塁は尾根上の曲輪群の要所に築かれ、例えば主郭の背後や主郭の虎口などは土塁が明確で、16郭では後述する櫓台に繋がる大土塁となっている。西尾根の14郭へは堀切に湾曲した土橋が架かって連結されている。14,16郭には大型の隅櫓台が備わり、特に16郭のものは下段の15郭からだと高さ7m程もある。この他、東尾根の末端近くにある10郭の虎口土塁には石積みが見られ、鶴巣楯移城後の戦国期にも有力支城として存続した可能性が高いと考えられる。主要な曲輪の周りや先端には、多数の腰曲輪群も見られる。
 城へは石神神社への参道で行くことができ、横堀外の腰曲輪には山道が通じている。城内は一部藪が酷いが、ゴーグル着用などすれば歩けない程のレベルではない。御所楯は、城域は広いが鶴巣楯と比べると縄張りの技巧性は乏しく、戦国初期までの古い形態を残していると考えられる。

 尚、御所楯の西側曲輪群の南に谷戸を挟んで八谷館があり、位置・規模・構造から考えて、八谷館は御所楯の出城であったと考えるのが妥当であろう。
14郭の湾曲した土橋→IMG_2399.JPG
IMG_2445.JPG←16郭の大型の隅櫓台
12郭南東の堀切→IMG_2282.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.447312/140.915043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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下草古城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2169.JPG←本丸周囲の水堀跡
 下草古城は、伊達政宗の3男宗清が1613年に入部し、1616年に吉岡城を築いて居城を移すまでの宗清の居城である。宗清は、二重の堀を持った平城として整備したが、川沿いの低地のため水害に見舞われることが多く、新たに吉岡城を築いたとされる。しかし、すぐ南方の山稜には黒川氏の巨城・鶴巣楯があり、下草古城は黒川氏一族か、鶴巣楯を有事の詰城とした黒川氏の平時の居館であった可能性もある。実際に過去に行われた周辺での発掘調査の結果、宗清居城以前の城下町があった可能性が指摘されている。
 下草古城は、竹林川南岸に築かれた平城である。城址は耕地化されてかなり改変されているが、方形の本丸とその周囲の水堀跡がほぼ往時の形で残っている。本丸の周囲には梯郭式に二ノ丸が築かれ、外堀の南西部が僅かにその形状を残している。二ノ丸の南側一帯に、城下町が築かれていたらしいが、現在ではその痕跡は微塵もない。低地になった本丸水堀跡だけが、城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.425227/140.903349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鶴巣楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1961.JPG←横堀に構築された枡形虎口
 鶴巣楯(鶴巣館)は、鶴楯城とも呼ばれ、奥州探題大崎氏の一族黒川氏の戦国期の居城である。1445年頃に、大崎氏の一族で最上氏の祖となった羽州探題(或いは出羽按察使とも)斯波兼頼の孫、左衛門尉氏直が黒川地方に分封されて、黒川氏を称したとされる。黒川氏は大崎氏の一族として大崎氏との強い紐帯で繋がっており、大崎領の南方を押さえる為に最初は御所楯を居城としていた。しかし戦国期に入り南の伊達氏の勢力が北上してくると、伊達一門の飯坂清宗(伊達氏9代儀山公政宗の3男)の子景氏を養子として家督を継がせ(入嗣は1519年以前とされる)、以後は大崎氏を離れて伊達氏に属した。そのため景氏は、北の大崎氏に対する備えとして新たに鶴巣楯を築いて居城を移した。以後鶴巣楯は、黒川氏4代に渡る居城となった。1588年の大崎合戦では、鶴巣楯主黒川月舟斎晴氏は突如伊達氏を裏切り、大崎方に付いて渋谷相模守が守る桑折城に入って守備に当たった。折からの大雪で留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大敗し、晴氏は娘婿の政景を温情をもってその帰陣を許した。その後、伊達氏と大崎氏の間で講話が成立したが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏は改易となった。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、黒川月舟斎と小野城主長江月鑑斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえた。月舟斎の所領は没収され、鶴巣楯はこの時に廃城になったと思われる。月舟斎は、留守政景の助命嘆願によって一命を取留め、その後は政景の保護下で余生を送り、1609年に没した。黒川氏の家督は、月舟斎が大崎氏から養子に迎えていた義康が継ぎ、少禄で伊達氏に仕えた。その子季氏の時、無嗣断絶となった。

 鶴巣楯は、吉田川の広い氾濫原に面した比高55m程の丘陵突端部に築かれている。宮城県内でも有数の規模・構造を持った山城で、城域は広大である。『日本城郭大系』などの記載に従うと、主要な曲輪だけで主郭~七ノ郭まである。主郭は頂部に位置する三角形状の曲輪で、西に二ノ郭、南東の尾根続きに三ノ郭、北東に四ノ郭を配置している。二ノ郭との間は変則的な二重堀切で分断し、三ノ郭との間は単発の堀切で分断している。主郭・二ノ郭・三ノ郭の周囲には腰曲輪が築かれ、その外周に横堀を多用して防御を固めている。この横堀は枡形虎口を兼ねたクランク状の屈曲や出枡形があちこちに見られる。また各所の虎口には櫓台も見られ、厳重な防御を施している。二ノ郭には内枡形と出枡形を組み合わせた虎口があったり、三ノ郭には側方を横堀で防御したS字土橋の虎口を設けるなど、虎口構造の技巧性も高い。また三ノ郭外周には尾根筋を分断するため深さ5mの大きな横堀が穿たれている。四ノ郭~七ノ郭は北東の尾根に沿って展開しているが、基本的に切岸だけで区画されている。これらの東から北の斜面にかけては多数の腰曲輪が築かれている。
 事前に本で見ていた縄張りからは、城域は広いが曲輪群だけがあるだけであまり技巧性はなさそうだと期待していなかったが、実際にはかなり巧妙な遺構群でビックリした。特に横堀の多用や枡形虎口の構築など、伊達氏の築城技術との類似点が多く見られることから、伊達氏の技術を移入したものの様に感じられた。
 ただ、遺構としては素晴らしいが、展望台となった四ノ郭以外は未整備で山林内が荒れており、うまく写真を取るのが非常に難しい。城址公園として綺麗に整備されると、その価値が見直されると思う。
三ノ郭外周の大空堀→IMG_2037.JPG
IMG_2007.JPG←三ノ郭虎口のS字土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.417578/140.901890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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続谷城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1732.JPG←二ノ郭跡の高台
 続谷城は、歴史不詳の城である。伝承では、永禄年間(1558~69年)か文亀年間(1501~03年)に承舎(つづきや)六郎という武士により築かれたと言われ、千本城の支城として機能したとされる。『那須記』には1566年に佐竹氏家臣の東将監勢に続谷織部が追い散らされたとあり、『稲村家文書』には1566年8月24日に続谷城主那須右衛門顕高が佐竹義重に攻められ落城したと記録されていると言う。

 続谷城は、妙薫寺西側に隣接する高台にあったとされている。「されている」というのは、城址付近がただの高台で、背後の山上には古墳があるぐらいで明確な遺構は確認できないからである。北西に張り出した尾根にだけ、何故か掘切が見られるが、何をどう防御する為に穿ったものだかもよくわからない。とにかく高台の上は平らな平場が広がっており、これが城址ということだろうか?畑になったり、宅地がキワまで来たりと改変の可能性も考えられる。城址標識があるので間違ないはずだが、あまりに城っぽくなく、非常に消化不良に陥る城である。その後、栃木県立博物館で開催された『中世宇都宮氏』に連携した市貝町の企画展の資料を見る機会があったが、それによれば高台は北から順に三ノ郭・主郭・二ノ郭とされている様である。いずれにしても普通の城とはかなり趣を異にしている。本当にこれらを遺構と考えてよいものかどうか、迷うところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.594848/140.123942/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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杉山城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1563.JPG←主郭周囲の空堀
 杉山城は、歴史不詳の城である。伝承では千本城の支城で、薄根家継と言う武士が築いたとされ、西の宇都宮氏に備えていたと推測されている。

 杉山城は、県道163号線と176号線が分岐する交差点北側の比高40m程の丘陵地に築かれている。中心に空堀で四周を囲まれた方形の主郭があり、その北西にも外周を横堀で囲まれた二ノ郭がある。主郭には南と西に土橋の架かった虎口が築かれている。また主郭と二ノ郭の間には、特殊な形状の角馬出しがあり、独立した区画ではなく主郭空堀の外側を巡る土塁にそのまま接続している。この他、主郭の南西にも曲輪群があるが、ここにも横堀が穿たれ、一部は二重横堀に見えるが、この辺は材木伐採で荒れておりどこまで遺構か疑問である。主郭東側下方には削平された広い腰曲輪が2段あり、屋敷などがあった可能性がある。背後を切り立った土塁で囲まれており、北側土塁の更に北側には堀切が穿たれ土橋が架かっている。遺構はよく残っているので、山麓の城址標識だけでなく城址も整備されて解説板があれば、言うことなしなのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.581496/140.106518/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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千本城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1457.JPG←主郭虎口の出枡形
 千本城は、下野の名族那須氏の庶流にして、那須七騎に名を連ねる千本氏の歴代の居城である。千本氏の祖は、那須資隆の10男為隆で、那須与一宗隆の兄に当たる。寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際には、光隆ら9人の兄は平家方に付いたが、末弟為隆・宗隆だけは源氏に従って義経の配下として活躍した。屋島の戦いの際、弟宗隆(那須与一)が扇の的を射た故事は世に名高いが、最初に義経から弓の名手として指名されたのは兄為隆であった。為隆は戦後、武功によってこの地域を与えられ、1190年に最初の居館を所草の山口の里(草の館)に構えたと言う。3年後の1193年、九石城を築いて新たな居城としたが、茂木領に近かったことから1197年に更に新たに千本城を築いて移った。以後、千本氏歴代の居城となり、千本氏は戦国期に至るまで那須宗家を支え続けた。10代資持は、千本氏中興の城主と言われ、室町時代に那須宗家が上那須・下那須に分裂して抗争した際、烏山城主の下那須氏を支持し、那須七騎の旗頭として活躍した。1549年、五月女坂で宇都宮氏を撃ち破った那須氏では惣領高資と弟資胤との間に内訌が生じ、資胤は千本氏13代資俊を頼った。資俊は、宇都宮氏重臣の芳賀高定と謀って1551年正月、高資を千本城で誘殺した。その後、資俊の嫡子資政は黒羽城主大関高増の娘を妻としたが、嫁姑の関係が悪く離縁し、これに怒った大関氏は千本氏を滅ぼしてその所領を手に入れようと謀略を巡らし、主君那須資晴に千本氏を誅伐するよう進言し、1585年、大関氏は弟の大田原綱清・福原資孝と謀って烏山大平寺において千本資俊・資政父子を誘殺した。これによって那須系千本氏は断絶し、この時千本城も落城した。千本氏の遺領は、資晴によって大関・大田原・福原の三氏と大谷津周防に分け与えられ、残りを茂木義政に与えて千本氏の名跡を継がせ、義政は千本大和守義隆と名乗って茂木系千本氏が誕生した。豊臣秀吉の時代になると、那須資晴は改易されて没落したが、那須七騎は小田原に参陣した功により所領を安堵され、1600年の徳川家康の上杉征伐の際には、義隆の子義定が黒羽城の加勢に赴き、千本氏は徳川旗本として存続した。江戸時代には一時断絶した時代もあったが、幕末まで旗本として存続した。

 千本城は、標高250mの山上に築かれている。大きく分けて主郭・二ノ郭・三ノ郭から構成され、更に腰曲輪や外郭が築かれている。主郭と二ノ郭は公園化されて整備されている。主郭には黒羽神社が置かれ、神社の周りも含めて主郭を取り巻く土塁が良く残っている。主郭内部は、神社部分とそれ以外の平場を仕切るように土塁があるが、これは遺構であろうか?主郭虎口の外には現地解説板に「土塁道」と表記される出枡形が形成されている。これを馬出しとしているHPもあるが、兵を置くような空間はなく、実態としては出枡形の虎口である。二ノ郭は、主郭の南に位置する横長の曲輪で、地元出身の方の寄付により河津桜が植えられ、4月初旬には満開であった。二ノ郭周囲にも土塁が築かれ、殊に東側の虎口部分の土塁は大きく重厚である。二ノ郭の南側には南北に長く広い三ノ郭がある。「屋敷跡」と称されているが、普通に言えば三ノ郭であろう。三ノ郭は上下2段に分かれ、内部は畑に変貌している。南側には土塁が残っている。主郭・二ノ郭・三ノ郭の外周には腰曲輪が数段築かれている。特に主郭東側の腰曲輪では、曲輪内を仕切る土塁と櫓台があり、木戸跡と考えられる。主郭の北側には堀切が穿たれている。外郭は、三ノ郭の西側に堀切を挟んで築かれ、斜面上に何段もの平場が築かれ、頂部は物見台となっている。現在も展望台として整備されており、眺望は抜群である。この他、三ノ郭の南側の給水施設がある辺りも曲輪跡だったとされるが、改変されてしまっている。千本城の遺構はこのような感じで、出枡形の虎口など戦国期の遺構も見られるが、全体としては技巧性の少ない素朴な縄張りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.577240/140.149090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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