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鶴巣楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1961.JPG←横堀に構築された枡形虎口
 鶴巣楯(鶴巣館)は、鶴楯城とも呼ばれ、奥州探題大崎氏の一族黒川氏の戦国期の居城である。1445年頃に、大崎氏の一族で最上氏の祖となった羽州探題(或いは出羽按察使とも)斯波兼頼の孫、左衛門尉氏直が黒川地方に分封されて、黒川氏を称したとされる。黒川氏は大崎氏の一族として大崎氏との強い紐帯で繋がっており、大崎領の南方を押さえる為に最初は御所楯を居城としていた。しかし戦国期に入り南の伊達氏の勢力が北上してくると、伊達一門の飯坂清宗(伊達氏9代儀山公政宗の3男)の子景氏を養子として家督を継がせ(入嗣は1519年以前とされる)、以後は大崎氏を離れて伊達氏に属した。そのため景氏は、北の大崎氏に対する備えとして新たに鶴巣楯を築いて居城を移した。以後鶴巣楯は、黒川氏4代に渡る居城となった。1588年の大崎合戦では、鶴巣楯主黒川月舟斎晴氏は突如伊達氏を裏切り、大崎方に付いて渋谷相模守が守る桑折城に入って守備に当たった。折からの大雪で留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大敗し、晴氏は娘婿の政景を温情をもってその帰陣を許した。その後、伊達氏と大崎氏の間で講話が成立したが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏は改易となった。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、黒川月舟斎と小野城主長江月鑑斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえた。月舟斎の所領は没収され、鶴巣楯はこの時に廃城になったと思われる。月舟斎は、留守政景の助命嘆願によって一命を取留め、その後は政景の保護下で余生を送り、1609年に没した。黒川氏の家督は、月舟斎が大崎氏から養子に迎えていた義康が継ぎ、少禄で伊達氏に仕えた。その子季氏の時、無嗣断絶となった。

 鶴巣楯は、吉田川の広い氾濫原に面した比高55m程の丘陵突端部に築かれている。宮城県内でも有数の規模・構造を持った山城で、城域は広大である。『日本城郭大系』などの記載に従うと、主要な曲輪だけで主郭~七ノ郭まである。主郭は頂部に位置する三角形状の曲輪で、西に二ノ郭、南東の尾根続きに三ノ郭、北東に四ノ郭を配置している。二ノ郭との間は変則的な二重堀切で分断し、三ノ郭との間は単発の堀切で分断している。主郭・二ノ郭・三ノ郭の周囲には腰曲輪が築かれ、その外周に横堀を多用して防御を固めている。この横堀は枡形虎口を兼ねたクランク状の屈曲や出枡形があちこちに見られる。また各所の虎口には櫓台も見られ、厳重な防御を施している。二ノ郭には内枡形と出枡形を組み合わせた虎口があったり、三ノ郭には側方を横堀で防御したS字土橋の虎口を設けるなど、虎口構造の技巧性も高い。また三ノ郭外周には尾根筋を分断するため深さ5mの大きな横堀が穿たれている。四ノ郭~七ノ郭は北東の尾根に沿って展開しているが、基本的に切岸だけで区画されている。これらの東から北の斜面にかけては多数の腰曲輪が築かれている。
 事前に本で見ていた縄張りからは、城域は広いが曲輪群だけがあるだけであまり技巧性はなさそうだと期待していなかったが、実際にはかなり巧妙な遺構群でビックリした。特に横堀の多用や枡形虎口の構築など、伊達氏の築城技術との類似点が多く見られることから、伊達氏の技術を移入したものの様に感じられた。
 ただ、遺構としては素晴らしいが、展望台となった四ノ郭以外は未整備で山林内が荒れており、うまく写真を取るのが非常に難しい。城址公園として綺麗に整備されると、その価値が見直されると思う。
三ノ郭外周の大空堀→IMG_2037.JPG
IMG_2007.JPG←三ノ郭虎口のS字土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.417578/140.901890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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