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余部城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0227.JPG←主郭の堀切の跡地
 余部城は、丸岡城とも呼ばれ、八上城主波多野氏の傘下にあった福井因幡守貞政の居城である。歴史上初めて余部城が現れるのは、15世紀の応仁の乱の時で、東軍の軍事拠点であった。東軍の主将細川勝元の京兆家は丹波守護を兼帯していたので、京都西方の支援拠点としたものであろう。戦国後期の天正年間(1573~92年)には、波多野氏が強勢をもって丹波南半をほぼ手中にし、その傘下にあった福井貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われた。この頃の亀岡盆地には、大堰川右岸地域の河岸段丘上に国人領主たちがそれぞれの城郭を構えており、西から順に並河城・余部城(丸岡城)・荒塚城(中世亀山城)・古世城・馬堀城がほぼ等間隔で築かれていた。明智光秀は織田信長の命を受けて丹波に侵攻し、1577年、貞政が降伏勧告を拒否したため宇津根・雑水川・安行山の三方から余部城を攻撃し、貞政以下の城兵は自刃し、余部城は落城した。

 余部城は、曽我谷川北岸の比高10m程の段丘先端に築かれている。先端に主郭、その西側に縦長の二ノ郭があったと推測されているが、現在は宅地化で遺構はほとんど湮滅している。主郭には「古城」「政所」の地名が残っており、それから推察すると、主郭北半には政庁機能があったらしい。また江戸時代の記録によれば、主郭には原初的な天守が築かれていたらしい。二ノ郭には「古城浦」の地名が残るが、これは古城裏の転訛であろうか。2000年頃までは、主郭と二ノ郭の堀切の痕跡が残っていたらしいが、その後の宅地開発でこれらのわずかな痕跡も失われてしまった。地名以外では、西岸寺前の城址石碑と解説板だけがその名残を伝えているに過ぎないのは、極めて残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.018865/135.571203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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