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物部城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1330.JPG←主郭の大型の櫓台
 物部城は、一時期丹波守護代となって強勢を誇った上原氏の居城である。上原氏は、信濃諏訪神党の一族上原成政が1193年に物部郷の地頭として入部したことに始まるとされる。最初は高屋山に城を築いたが、後に物部城を築いて居城を移した。戦国時代初期には、上原豊前守元秀は管領細川政元の重臣として重用され、丹波守護細川氏の下で八木城主内藤氏に代わり丹波守護代となった。しかし元秀は国内で横暴な政策を強行した為、1489年、これに抵抗した丹波国人衆の位田氏・荻野氏・大槻氏・須知氏らが反乱を起こして位田城に立て籠もり、位田の乱が発生した。この丹波国人一揆に対して、守護方は丹波・但馬・摂津など13ヶ国の大軍を動員して攻め寄せたが、一揆勢の守りは固く、一年間にわたって抗戦を続けた。そして1490年、一旦は一揆勢は城に火を放って自落したが、翌年には一揆勢が再起して位田城など7つの城を占拠して反乱を続け、結局乱が鎮圧されたのは1492年の位田城陥落の時であった。その後も上原氏の勢威は続き、1493年、明応の政変における将軍廃立でも重要な役割を担った。これらの大功によって上原氏は増長し、被官共々驕慢な振る舞いが多く、刃傷沙汰を起こして元秀が死ぬなどして勢力を弱めた。そして1571年、上原右衛門少輔の時、黒井城主赤井直正に攻められて物部城は落城した。

 物部城は、犀川とその支流に挟まれた比高35m程の独立丘陵に築かれている。丘陵南東端に物部神社があり、その参道から登ることができる。南東から順に五ノ郭・二ノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭と直線的に並べた連郭式を基本とし、東西の斜面に1~2段の腰曲輪を築いた縄張りとなっている。前述の物部神社があるのが五ノ郭である。そこから横堀状の通路を登っていくと、奥の右手に二ノ郭虎口があるが、反対側には動線制約の大竪堀が穿たれている。まずこの竪堀の規模が大きいのにビックリする。二ノ郭と主郭はわずかな切岸だけで区画され、主郭前面には天守台とも考えられる大型の櫓台が築かれている。主郭は丘陵中央の最高所にあり、背面にも大きな土塁を築いている。この土塁の西側側方に搦手虎口があり、北の三ノ郭に通じる城道が伸びている。また東側には斜面を迂回する武者走りも残っている。主郭と三ノ郭は大きな切岸で区画されている。西側の腰曲輪は複雑な構造で、櫓台を備えた虎口があって、下方に城道が伸びている。三ノ郭の先端にも土塁が築かれ、東斜面には畝状竪堀が穿たれている。三ノ郭と四ノ郭も大きな切岸で区画され、四ノ郭東側には櫓台が築かれている。四ノ郭の先端は数段の帯曲輪となって終わっている。これらの主要な曲輪間の動線には、西側の腰曲輪群が使われており、要所には横矢掛かりが多数散見される。四ノ郭付近だけは竹薮で踏査が大変だが、それ以外は比較的藪が少なく遺構の確認がし易い。低丘陵の単純な形の城なので、全然期待していなかったが、堀切こそ無いものの要所にかなり技巧的な遺構が確認でき、さすがは一時期強勢を誇った守護代の城だと感心させられた。
二ノ郭虎口脇の大竪堀→IMG_1309.JPG
IMG_1404.JPG←三ノ郭側方の畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.357022/135.218825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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