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芹沢城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3391.JPG←南東辺縁部の横堀
 芹沢城は、大掾氏の一族芹沢氏の居城である。芹沢氏は、鎌倉期まで大掾氏の宗家であった多気大掾氏の流れ汲み、八田知家の讒言によって没落した多気義幹の次男茂幹が、義幹の失脚後に宗家となった馬場資幹の後援によって復活して、後の芹沢氏の祖となった。南北朝期に茂幹の後裔平竜太が、相模国高座郡に所領を与えられ、芹沢の地に館を構えて芹沢氏を称した。元服した竜太は幹文と名を改め、以後、良幹・高幹・望幹と4代にわたって鎌倉公方に仕えた。その後、1385年に隠岐守良忠の時に常陸へ戻ったが、これは病弱であった大掾詮国を支えるためであったと推測されている。良忠は府中城に在城し、詮国の継嗣満幹を補佐し、その報賞として行方郡荒原郷の芹沢を与えられた。そして戦国前期の天文年間(1532~55年)、芹沢秀幹の時に芹沢城が築かれたと言われている(別説もあり、秀幹の2代前の俊幹が初代城主とも言われる)。その後、芹沢城を本拠として勢力を維持した。小田原の役後の1591年、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将は謀殺されたが、時の当主国幹は病気と偽って招きに応じなかったため危害を免れた。しかし、佐竹氏に滅ぼされた大掾氏系諸族の残党が同族である芹沢氏を頼り、芹沢城に集まって籠城する事態となった。義宣は芹沢氏とはかねてからの誼もあり、芹沢城への攻撃は避けたが、国幹は周囲を佐竹氏に抑えられた為、城を放棄して下総古河に移り、後に下野国喜連川の那須資家の館に身を寄せ、そこで生涯を閉じた。国幹の子通幹は縁故の秋田河内守実季を頼って出羽国に移住したが、1602年に秋田氏は国替えによって常陸国宍戸城に移封となり、通幹もこれに従って常陸に戻った。1606年、通幹は徳川家康に召されて行方郡富田の地に100石を与えられ、同年故郷の芹沢に帰住し、その子孫は水戸藩郷士となった。幕末には、新撰組の初代筆頭局長となった梟雄芹沢鴨を輩出した。

 芹沢城は、梶無川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。現在、段丘上は耕地化しており、大きく立派な城址碑が建つほかは、明確な遺構は台地の南東辺縁部にしか残っていない。この辺縁部には横堀が穿たれており、特に南東角では三重堀切となって斜面を分断している。この他では、段丘上の大宮神社付近に土塁跡らしい土盛があるが、遺構かどうかは不明である。芹沢城は、近世にかなり改変されている様なので、遺構が僅かなのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.140283/140.424607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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