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将門関連史跡 その3 [その他の史跡巡り]

 「将門関連史跡 その2」の続きである。前回同様これらの史跡については、「将門ブログ」に記載されている膨大な量の情報から多くの知見を得た。

<子飼の渡し古戦場>(茨城県下妻市)
IMG_5447.JPG←子飼の渡し付近の現況
 子飼の渡しは、小貝川にある渡し場で、平将門とその叔父良兼との間で合戦が行われた。935年の野本合戦で3人の息子を失った源護は、朝廷に将門を訴えたが不発に終わった。源護の娘婿でもあった良兼は積年の恨みを晴らすため、937年8月、軍勢を将門の本拠に向けて進め、常陸・下総両国の境にある子飼の渡しで将門軍と対陣した。この時、良兼は、桓武平氏の祖である高望王(将門の祖父に当たる)と将門の父で今は亡き良将の霊像を陣頭に掲げて進軍するという奇策を用いた。将門軍は、これに全く抵抗できず大敗したと言う。将門は山野に隠れ、良兼軍は抵抗するもののない将門の本拠地・下総国豊田郡に入り、栗栖院常羽御厩や人家を焼き払った。そして、逃れていた将門の妻子を見つけ、芦津江のほとりで惨殺した。
 子飼の渡しは、現在の愛国橋付近であったとされ、橋の西の袂に標柱が建っているが、日に焼けてしまって解説文の文字を読むことができない。せめて解説板だけは直して欲しいところである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.148505/140.002770/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<鎌輪の宿>(茨城県下妻市)
公民館裏の石碑→IMG_5450.JPG
 鎌輪の宿は、将門の元々の根拠地で、その居館の地である。一時期、上京して太政大臣藤原忠平に仕えたが、在京12年にして都の腐敗に幻滅して、故郷の下総国相馬御厨に戻った。そして豊田郡の鎌輪に新たな本拠を定め、民衆と共に原野を開拓して新たな国造りに努めたと言う。しかし、叔父たちの執拗な攻撃に遭い、居ること7年にしてやむなく石井に本拠を移した(石井営所)。その後、ちょっとした行き違いから天慶の乱の首謀者となってしまい、そのまま坂東の地を席巻して新皇を称したが、平貞盛・藤原秀郷の軍に敗れ、非業の最期を遂げた。将門の死後、残党狩りは過酷を極め、鎌輪の宿も人は去り、舎屋は焼かれ、歴史の彼方に埋没したと言う。将門の居館は、古老の伝えるところでは大字鎌庭字館野(新宿地内)にあったとされる。

 鎌輪の宿は、旧千代川村にあった。現在の航空写真ではわかりにくいが、戦後の航空写真を見ると、この地はかつて鬼怒川が東に向かって大きくUの字に蛇行していた内側の平地であり、三方を川で囲まれた要害の地であったことがわかる(現在、河道は改修され、まっすぐ南流している)。鎌輪の宿を伝えているものが2ヶ所あり、一つは千代川公民館裏に立派な石碑が建ち(ここは旧河道である)、もう一つはそこから西北西に700m離れた鎌庭香取神社境内の前に解説板が建っている。実はそれ以外にもう一つ、千代川中学の北西の水田地帯の中に「居館跡」と書かれた立看板があるらしいので、後日再訪してみたい。この看板の地が、古老の伝える居館跡なのであろう。

 場所:【千代川公民館裏の石碑】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.155678/139.963074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【鎌庭香取神社】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.158121/139.955778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<御所神社>(茨城県八千代町)
IMG_5466.JPG
 御所神社は、平将門を御祭神として祀る神社で、将門の館跡(仁江戸の館)であったとの伝承があるらしい。「桔梗の前」という愛妾を住まわせていたと伝えられている様だ。しかし将門の居館として『将門記』に記載されているのは、鎌輪の宿と石井営所なので、実際に仁江戸に館があったのかは不明。居館ではなく、将門によって郷村統治の為の陣屋が置かれた可能性もあるだろう。また一説には堀田道光と言う人の居館であったともされるが、堀田氏の事績も不明である。いずれにしても「御所」の名が示す通り、将門伝説を語り伝える地の一つであることは間違いない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.161231/139.932722/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<常羽御厨兵馬調練の馬場跡>(茨城県常総市)
IMG_5471.JPG
 常羽御厨(いくはのみうまや)は、平良持・将門2代に渡る牧場である。元々この付近には官牧であった古牧(現・古間木)と大牧(現・大間木)があり、古牧が手狭となったため移転した大牧の馬見所が、この馬場であったと言われている。東西に飯沼の入江を控え、南北に大路が貫通して両牧場に通じる要地で、馬場の北端を花立と称し、検査調練の際の出発点であったとされる。937年、子飼の渡しの合戦で将門軍を破った良兼は、将門の本拠地豊田郡を蹂躙し、常羽御厨など多数の人家舎宅を焼き払った。これは、将門の兵馬調練場として軍事上の重要拠点であった為に狙われたものと言われている。
 現在は、馬場地区にある交差点の脇に、「常羽御厨兵馬調練之馬場跡」と刻まれた石碑と解説板が建っているだけである。
 尚、西方の入江に接した白山(城山)の地に、将門の陣頭で上野守に任命された常羽御厨の別当多治経明の居館があったと伝えられている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.133404/139.920577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<下総国亭跡>(茨城県常総市)
IMG_5476.JPG←石碑・解説板と筑波山
 下総国亭(国庁)の地は、平安前期~中期の頃、北総最初の開拓地で、鬼怒川と飯沼川の水便を利用できる地勢であったため、早くから開拓基地として栄えていた。昌泰年間(898~901年)に鎮守府将軍平良将がこの地に進出して居を構え、下総開拓の府として国庁を置いた(現在の地名「国生(こっしょう)」は、国庁を置いたことに由来すると言われる)。良将は、後にこの地の下流に当たる要害地・向石下に豊田館を築いて居住し、902年に豊田館で将門が生まれたと伝えられる。しかし国庁は、良将・将門父子の時代を通じてこの地に置かれていたとされ、939年11月に鎌輪の宿に還った将門は、捕虜の常陸長官招使をこの地の一家に住まわせたと『将門記』に記載されている。また常陸介藤原維幾父子に与えられた一家も、この地内にあったとされる。但し、「国庁」とは言っても国府ではなく、国府の下位にあって地域支配を行うための出先機関としての官衙であったろう。
 下総国亭は、鬼怒川西岸の台地上の畑の只中に、石碑と解説板が建っているだけである。この台地の西を流れる鬼怒川支流の小河川は、その名も将門川と言い、将門伝説に所縁深い地であることを伺わせる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.129929/139.948654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<六所塚>(茨城県常総市)
IMG_5482.JPG
 六所塚は、古代の前方後円墳で、将門の父良将が下総国庁を本拠とした際に「六所の宮」を勧請して祭祀を行ったことから、六所塚と呼ばれるようになったと伝えられる。また別説では、六所塚は良将の墳墓で、元の名を御所(五所)塚と呼んだが、940年の将門滅亡後に逆賊の汚名が高まるに連れて六所塚と改称されたとも言われる。東側の通称六所谷と称される地は、将門討死後にその遺骸を埋葬した地とも伝承されていると言う。
 六所塚周辺には、かつては85基もの古墳があり御子埋古墳群と称されていた。現在では盗掘や開発によってほとんどが姿を消したが、当古墳群中で最大の前方後円墳である六所塚は、古くから畏敬されてきたため、現在までその姿を残している。農道脇に標柱と解説板が建っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.100634/139.958739/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平親王将門一族墳墓之地>(茨城県常総市)
IMG_5487.JPG←堤防下の石碑と解説板
 平親王将門一族墳墓之地は、将門の父平良将と兄将弘らの墳墓の地であったと言われている。将門の討死後、豊田の郎党は主君の遺骸を葦毛の馬に乗せて密かに逃れ来て、この一族の墓側に葬ったと伝えられている。この墳墓の地一帯の台地は御子埋と称され、古くから石碑群があり、「馬降り石」と呼ばれて、その前を通る時は必ず下馬して怪我のないように祈る風習があった。また御子埋に接する引手山の一廓は乗打すると落馬すると恐れられ、手綱を引いて通り過ぎなければならないと畏敬されてきたと言う。これらの石碑は、鎌倉中期の1253年に時の執権北条時頼が民生安定の一助とするため、自ら執奏して勅免を受け、下総守護千葉胤宗に命じて一大法要を営ませて建碑したものを始め、その翌年以降に縁者伴類多数の講中が豊田・小田(時知)両氏の助力を得て建碑したものなどである。現在は蔵持城付近の「赦免供養之碑」と西福寺の「菩提供養之碑」として、移されて現存している。

 平親王将門一族墳墓之地は、立派な石碑と解説板が建っているのだが、場所が非常にわかりにくい。堤防下にあるという情報だけを頼りに周辺を歩き回って、ようやく探し当てた。六所塚古墳から東南東に250m程の位置にあり、鬼怒川堤防の西側直下にある。石碑と解説板以外はただの藪に覆われた台地である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.100045/139.961550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<平将門菩提供養之碑>(茨城県常総市)
IMG_5494.JPG

 前述の通り、平親王将門一族墳墓之地にあったものが、新石下の妙見寺に移され、明治4年の妙見寺廃絶の後、寺縁によって西福寺に移されたものと伝えられる。1254年の将門の命日(2月14日)に建碑供養されたものである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.109008/139.973116/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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