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御着城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6570.JPG←二ノ丸外周の堀跡と切岸
 御着城は、播磨守護赤松氏の一族、小寺氏の居城である。小寺氏は伝わっている系図では、赤松氏を南北朝動乱の中で大大名にのし上げた赤松円心より4代前に分かれた一族と言われる。しかし、円心以前の赤松氏自体の系図が不明瞭であり(南北朝で彗星のように現れた楠氏・名和氏も同様)、事実かどうかは必ずしも明らかではない。ただ太平記には、元弘の乱の時から赤松氏に従った一族として、佐用氏・上月氏と共に小寺氏の名も何度も現れており、赤松氏は鎌倉時代には名もなき土豪であったとは言え、既に一族を広く蟠踞させるほどの勢力を有していたことが窺われる。小寺氏は赤松宗家の家臣として重用され、1349年に小寺頼季が、円心の次男貞範が築いた姫山城(後の姫路城)の城代となり、以後代々、姫山城主を歴任した。1441年の嘉吉の乱の際には、小寺伊賀守職治は赤松満祐に従って幕府討伐軍と戦い、城山城で討死した。赤松氏滅亡後、その遺臣達は赤松氏再興を目指して奮闘し、職治の子と推測される小寺藤兵衛(豊職か)もその主要メンバーとなって長禄の変で後南朝に奪われていた神璽を奪還し、お家再興に成功した。再興赤松氏の当主政則は、応仁の大乱の時に東軍の細川勝元に与して山名氏に奪われていた本拠の播磨を奪還し、播磨守護に返り咲いた。播磨に戻った政則は、1469年に置塩城を築いて居城とし、小寺豊職を姫路城主とした。豊職の子政隆は、同じ赤松家臣であった浦上氏の下克上で動揺する赤松氏を支え続けた。伝承では御着城はこの政隆によって、1519年に築かれたと言われている。しかし、嘉吉年間(1441~44年)には既に構居が設けられ、明応年間(1492~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭に発展していたとされ、発掘調査の結果からもそれが裏付けられている。いずれにしても、政隆以後、則職・政職と3代に渡る小寺氏の居城となった。政職の時には、赤松氏の勢力が衰退した為、黒田職隆・孝高(官兵衛)父子らの多くの有能な人材を登用し、次第に自立した大名となった。勢力の拡張に伴って御着城も整備され、戦国末期には別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城と称せられた。播磨に織田信長の勢力が伸びてくると、政職は黒田孝高の進言を容れて一旦は織田方に付いたが、三木城主別所長治の離反、摂津有岡城の荒木村重の反乱が相次いで起き、これに動揺した政職は織田から離反して毛利方に付いた。その後、三木城・有岡城が落城すると、政職は城を捨てて備後の鞆に逃亡し、小寺氏は没落。信長の部将羽柴秀吉の侵攻で御着城は落城した。

 御着城は、天川東岸の平地に築かれた城である。中心部に本丸・二ノ丸を東西に配置し、北と東には四重の堀、南と西には二重の堀を廻らし、更に惣構を備えた城であったと言うが、現在は城の中心部を東西に国道2号線が貫通し、市街化が進んで遺構はほとんど残っていない。本丸北半は公園と天守風の公民館となり、本丸南半は小寺氏一族を祀る小寺大明神が鎮座している。また二ノ丸は御着城跡公園というグラウンドに変貌している。遺構として残っているのは、公民館北側に移築保存された天川橋の下の堀跡の窪地と、二ノ丸外周の堀と切岸(土塁)だけである。播磨三大城と称せられた面影は全く残っていない。それにしても、御着城の周辺には城を築くに適した丘陵・山稜がいくつもあるのに、わざわざ平地に城を築いたことは、小寺氏の先進性を窺わせるものであろう。
 尚、本丸跡の公園西側に黒田家の廟所が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818533/134.740705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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