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船上城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7705.JPG←本丸周囲の堀跡の畑
 船上城は、キリシタン大名として有名な高山右近が築いた城である。織田信長横死後の1585年、天下統一を目指す豊臣秀吉は大名の国替えを断行し、摂津高槻城主高山右近重友が明石与四郎則実に代わって明石郡6万石を与えられた。右近は最初、明石氏の居城枝吉城に入ったが、直ちに船上城の築城に取り掛かった。一説には、この地には別所吉親(三木城主別所長治の叔父)が築いた林ノ城があり、それを右近が拡張整備したとも言われている。しかしわずか2年後の1587年6月、秀吉はバテレン追放令を発し、右近は改宗を拒否して領地没収の上、追放となった(一時的に加賀前田家が名築城家で声望もあった右近を庇護し、右近は高岡城の縄張りを行った)。その後、明石は豊臣氏の直轄領となった。秀吉の死後、1600年の関ヶ原合戦で天下の覇権を握った徳川家康は、女婿の池田輝政を播磨姫路城に配し、明石船上城にはその一族池田出羽守由之が入ってこれを守った。1615年の一国一城令で、船上城は櫓や堀を廃して城構えから屋敷構えに改修され、1617年に信濃松本城主小笠原忠政が明石に移封となると、2代将軍徳川秀忠の命により明石城が新たに築城された。船上城の用材の一部は明石城へ転用され、1620年の明石城完成と共に船上城は廃城となった。

 船上城は、明石川の河口付近の西側の平地に築かれていた。周囲一帯は宅地化で遺構は完全に失われ、本丸跡は畑になり、その中の小さな土壇に神社が残っている程度である。また本丸周囲には堀跡の水路と低い畑が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ると、本丸を始めとして東西に方形に近い形の畑が3つ~4つ程並んでおり、連郭式の城だったようである。方形の曲輪を並べる平城の形態は、この後に右近が縄張りした高岡城とも共通している。いずれにしてもほぼ完全に失われてしまった城である。尚、水路を挟んで本丸北東にある公園に、船上城の解説板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.647834/134.975023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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