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瓦林城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7724.JPG←城址とされる日野神社
 瓦林城は、南北朝時代に赤松円心の部将貴志五郎四郎義氏が守っていたことが知られる城である。即ち『貴志義氏軍忠申書』によれば、1336年4月13日に義氏は瓦林城に立て籠もっており、足利尊氏が九州で態勢を立て直して再挙東上するまでの間、白旗城に籠もった赤松勢の一翼を担って、摂津瓦林城で新田義貞率いる南朝軍の進攻を食い止めていた。5月25日の湊川の戦いでは、南朝軍は香下寺城・円生寺城から瓦林城に来攻し、これと戦ったと言う。また『太平記』には、1362年7月、佐々木道誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に河原林(瓦林)弾正左衛門の名が見える。瓦林氏の出自は不明であるが、既に瓦林付近に拠点を持っていた可能性がある。神崎川下流の北朝軍の防衛体制を見た南朝軍は、夜半密かに神崎川の上流から渡河し、小屋野(昆陽)・戸松(富松)・河原林(瓦林)に軍勢を配して、早旦に北朝軍を一斉攻撃したと言う。昆陽・富松・瓦林は後述する通り、いずれも戦国期には城が築かれた要地であり、この時既に瓦林に何らかの城砦が築かれていた可能性がある。尚、北朝軍はこの合戦で大敗し、河原林弾正左衛門も討死したと記載されている。
 時代は下って戦国前期には、瓦林正頼の持ち城となっていた様である。瓦林氏は鷹尾城から越水城に居城を移しているが、瓦林城はその支城となっていたと推測されている。1519年に阿波から細川澄元が越水城に攻め寄せてきた時には、細川高国が越水城の後詰めとして池田城を本陣とし、昆陽城・富松城と共に瓦林城に兵を入れて陣を張らせたと言われている。1570年9月、瓦林三河守が城主の時、三好氏の部将篠原長房の攻撃を受け、織田信長に味方していた三河守は、防戦虚しく城兵ら男女110余名と共に討死した。但しこの時落城した城は、瓦林城であったとも越水城であったとも言われ、詳細はわかっていない。いずれにしても、瓦林城はこの頃には機能を失ったと考えられている。

 瓦林城は、武庫川西岸の平地に築かれていたらしい。現在の日野神社の辺りにあったと言われており、神社参道に城址碑が立ち、神社の由緒書きにも瓦林城のことが記されている。しかし堀跡も残っておらず、城を思わせるものは何も残っていない。戦後間もなくの航空写真を見ても城の名残を思わせるものは確認できないので、早くに失われた城の様である。その不鮮明な歴史と共に、闇に包まれた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.749150/135.370338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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