将門関連史跡 その4 [その他の史跡巡り]
以前に茨城県内の県西地域の将門関連史跡について紹介したが、守谷・取手市域にも将門伝説が色濃く残っている。これは勿論、平将門の裔を自称した守谷城を本拠とした下総相馬氏の影響によると思われる。
<平将門・七騎石塔>(茨城県守谷市)
守谷の海禅寺には、平将門と7人の武者(七騎武者)のものとされる8基の石塔が残っている。1664年に守谷城主堀田正俊が寄進した『海禅寺縁起』によれば、海禅寺は931年に平将門が創建したと伝えられ、将門の母や弟将頼が寺に住んでいたと言う伝説も残っているらしい。将門には7人の影武者伝説があり、現在残る石塔は、937年に将門が京から帰国する途中、平良兼・貞盛軍に待ち伏せされ、将門の身代わりとなって討死した7人の影武者の供養塔と言われている。しかし江戸時代に建てられたものと言われ、あくまで伝説の域を出ない。しかし将門の影武者の墓というのは全国的にも珍しいらしい。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930005/139.986634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
<桔梗塚>(茨城県取手市)
桔梗塚は、将門の愛妾であった桔梗御前が亡くなった場所とされる。桔梗御前については諸説あるが、よく知られているのは、将門と7人の影武者のどれが本物かを見分ける方法を、桔梗が敵に教えてしまったために将門が討死したというものである。ここの桔梗塚に伝わる伝説では、将門が討たれたと聞いてここまで逃げて来た桔梗御前が、敵の追手に捕まりここで殺されたとされ、その恨みによってこの地の桔梗は花が咲かないと言う。元よりこれも伝説の域を出ない。
場所は、国道294号線の脇で、交通量の多い幹線道路脇にこの様な史跡がぽつんと残っているというのは、何とも不思議なものである。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925661/140.022640/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
<朝日御殿跡>(茨城県取手市)
←大日山古墳に建つ岡神社
朝日御殿は、将門の愛妾桔梗御前の御殿跡と言われている。岡台地の東端には平場が広がり、中央の一段高い土壇の上に岡神社が鎮座している。この土壇は大日山古墳で、県の指定史跡となっている。頂部からやや降ったところにも平場が広がっているが、御殿があったということ自体が伝説に彩られているので、遺構かどうかを詮索するのも野暮というものであろう。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925400/140.050814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
<伝平国香供養塔>(茨城県龍ケ崎市)
地元では古くから、将門の伯父平国香の供養塔と伝えられている。その形態から鎌倉後期から室町前期にかけて造られたものと推測されている。かなり大型の宝篋印塔であると同時に、全体が太い寸胴で、笠の部分に反りが見受けられるなど,一般的な宝篋印塔と比べて珍しい形状をしている。この地域は、平安後期~南北朝期にかけて「相馬御厨」と呼ばれる荘園に属しており、下総相馬氏が支配していた。そのような背景から、相馬氏一族に連なる有力な在地領主が創建に関わっていた可能性が指摘されている。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.921925/140.139627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
※過去の将門関係史跡巡りはこちらとこちらとこちら。
<平将門・七騎石塔>(茨城県守谷市)
守谷の海禅寺には、平将門と7人の武者(七騎武者)のものとされる8基の石塔が残っている。1664年に守谷城主堀田正俊が寄進した『海禅寺縁起』によれば、海禅寺は931年に平将門が創建したと伝えられ、将門の母や弟将頼が寺に住んでいたと言う伝説も残っているらしい。将門には7人の影武者伝説があり、現在残る石塔は、937年に将門が京から帰国する途中、平良兼・貞盛軍に待ち伏せされ、将門の身代わりとなって討死した7人の影武者の供養塔と言われている。しかし江戸時代に建てられたものと言われ、あくまで伝説の域を出ない。しかし将門の影武者の墓というのは全国的にも珍しいらしい。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930005/139.986634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
<桔梗塚>(茨城県取手市)
桔梗塚は、将門の愛妾であった桔梗御前が亡くなった場所とされる。桔梗御前については諸説あるが、よく知られているのは、将門と7人の影武者のどれが本物かを見分ける方法を、桔梗が敵に教えてしまったために将門が討死したというものである。ここの桔梗塚に伝わる伝説では、将門が討たれたと聞いてここまで逃げて来た桔梗御前が、敵の追手に捕まりここで殺されたとされ、その恨みによってこの地の桔梗は花が咲かないと言う。元よりこれも伝説の域を出ない。
場所は、国道294号線の脇で、交通量の多い幹線道路脇にこの様な史跡がぽつんと残っているというのは、何とも不思議なものである。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925661/140.022640/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
<朝日御殿跡>(茨城県取手市)
←大日山古墳に建つ岡神社
朝日御殿は、将門の愛妾桔梗御前の御殿跡と言われている。岡台地の東端には平場が広がり、中央の一段高い土壇の上に岡神社が鎮座している。この土壇は大日山古墳で、県の指定史跡となっている。頂部からやや降ったところにも平場が広がっているが、御殿があったということ自体が伝説に彩られているので、遺構かどうかを詮索するのも野暮というものであろう。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925400/140.050814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
<伝平国香供養塔>(茨城県龍ケ崎市)
地元では古くから、将門の伯父平国香の供養塔と伝えられている。その形態から鎌倉後期から室町前期にかけて造られたものと推測されている。かなり大型の宝篋印塔であると同時に、全体が太い寸胴で、笠の部分に反りが見受けられるなど,一般的な宝篋印塔と比べて珍しい形状をしている。この地域は、平安後期~南北朝期にかけて「相馬御厨」と呼ばれる荘園に属しており、下総相馬氏が支配していた。そのような背景から、相馬氏一族に連なる有力な在地領主が創建に関わっていた可能性が指摘されている。
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.921925/140.139627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
※過去の将門関係史跡巡りはこちらとこちらとこちら。