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永井城 その1(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1377.JPG←三ノ郭前面の小堀切
 永井城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の初期の居城である。山内首藤経俊が、源頼朝の奥州合戦での戦功により桃生24郷を拝領し、その後時代不明ながら奥州に下向して永井城を築いて居城とした。その事績は大森城の項に記載する。室町期に南方に勢力を伸ばして大森城に居城を移すと、永井城には重臣の畑崎内膳を入れて守らせた。1499年、葛西宗清の家臣門田丹波・勝田某らが主君宗清の謀殺を図ったが、陰謀が露見し、丹波らは永井城の畑崎氏を頼って逃れた。葛西氏は丹波らの引渡しを要求したが、畑崎氏がこれに応じなかった為、1511年に永井城を攻囲し、伊達稙宗の支援を得て城を陥としたと言う。その後永井城は葛西氏の持ち城となった様である。

 永井城は、標高65mの永井丘陵中央部に築かれている。この丘陵は、なだらかな斜面で形成されており、あまり要害性を感じさせない。昭和47年の河北地区教育委員会(当時)発行の『ふるさとの文化財』によれば、西から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・第一控丸・第二控丸(八雲神社)の5郭が並んで城を構成していたと言う。しかし現地を確認すると、実際にはもっと多くの曲輪があったと考えられる。前述の5郭は、昭和30~50年代の航空写真を見るとはっきり確認できるが、現在踏査可能なのはこの中では三ノ郭だけで、その他は耕作放棄地となって踏査不能の藪で覆われている。(八雲神社には行っていないが、GoogleMapの航空写真を見ると、社殿は現在でも残っているようなので、第二控丸は踏査できるかもしれない。)三ノ郭より西側は現在でも畑となっていて、三ノ郭と二ノ郭の間は切岸で区画されている。三ノ郭の西側前面には小堀切が穿たれ、その外に櫓台が築かれている。その南西には2段の平場が広がり、西端に堀切跡がわずかに残っている。また南斜面にも腰曲輪群があった様だが、耕地化による改変の可能性もあり、はっきり遺構とは断定できない。これら城の中心部以外にも、西の三角点のある台地も出曲輪であったのではないかと考えられる。更に南西の民家裏にも台地があり、地形的にはここも出曲輪だったように感じられるが、踏査できていないので実態は不明である。いずれにしても、城内はほとんど畑と耕作放棄地で遺構の残存度は悪い。現状を見る限り、素朴な古い形態の山城であった様だ。
西端部の堀切跡→IMG_1360.JPG
IMG_1371.JPG←西の腰曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆(再訪の結果、評価を修正)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.581939/141.283107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※その後の永井城主要部の再訪記はこちら
 また再訪記では、現地踏査の結果から曲輪の呼称を変更しています。
タグ:中世山城
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