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保呂羽楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1868.JPG←主郭西側の横堀
 保呂羽楯(保呂羽館)は、奥州の雄葛西氏の居城であったと推測されている。葛西氏の事績は石巻城の項に記載する。元は登米小野寺氏の居城で、葛西氏が本拠を保呂羽楯に移すに当たり、保呂羽楯を葛西氏に譲り渡し、小野寺氏は美濃楯に移住したものとも言われるが、明証はない。石巻城と並ぶ葛西氏の居城で、戦国時代に寺池城と呼ばれたのがこの保呂羽楯であったと考えられている。葛西氏は当初石巻城を居城としていたが、時期不明ながら、後に寺池城(保呂羽楯)に本拠を移したと言われている。しかし葛西氏の系図にはかなり混乱もあり、別説では先行して奥州に入部していた奥州葛西氏と、しばらく関東に本拠を置き、遅れて奥州に下向した関東葛西氏の系統に二分されて並立していたとも言われる。いずれにしても保呂羽楯は寺池葛西氏の本拠であったが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏は改易され、没落した。同年10月、葛西大崎一揆が起きたが、伊達勢を主力とする奥州仕置軍に鎮圧されその勢力が擦り潰されると、葛西氏再興の夢は絶たれた。葛西旧領が伊達氏の支配下に入ると、新たに寺池城が築かれ、保呂羽楯はその役目を終えたと思われる。

 保呂羽楯は、北上川西岸に広がる草飼山の北半部一帯に築かれている。標高約100mで、その城域は東西1km、南北2kmに及ぶと言われ、県内最大級の山城とされる。『日本城郭大系』に記載されている縄張図では、現在保呂羽浄水場が置かれている丘陵を示しているが、主郭はその一つ南のピークにあったと見られる。西側を通る山道の脇に城址立看板が建っており、そこから登ってしばらく行くと道は左に鋭角に曲がり、その先を行くと主郭の南西端に至る。主郭は一段高くなった曲輪で、西側に横堀を穿って防御している。主郭西辺には低土塁も築かれている。主郭北側には腰曲輪が廻らされている。主郭の東側に二ノ郭、更に東に三ノ郭と思われる平場がある。主郭は山林となっているが、二ノ郭・三ノ郭は空き地となっており各々段差だけで区切られている。その他、周囲に腰曲輪らしい平場が確認できる。城の中心部は以上の通りで、その他にも広大な丘陵上に曲輪群が展開していたと思われるが(前述の浄水場もその一郭と思われるが)、時間の関係もあってそれらは踏査していない。大族葛西氏の本拠にしては、縄張り的に目立った特徴はなく、結局家臣団の統率に苦労し続けた葛西氏としては、城の普請はこの程度のものだったのかもしれない。勿論、未踏査の部分に素晴らしい技巧的な遺構が隠れている可能性もあるが。
 尚、城の中心部から南南西にやや離れた高台に、「保呂羽城址」と刻まれた大きな石碑が建っている。
主郭北側の腰曲輪→IMG_1883.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.643473/141.277893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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