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泉沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3645.JPG←主郭
 泉沢城は、大崎氏の一族で大崎天文の内乱を起こした新田安芸頼遠の居城である。当主大崎義直の横暴に怒った頼遠は、1534年、中新田・高木・黒沢らの諸氏を誘って叛乱を起こした。これが大崎天文の内乱で、義直は直ちに頼遠討伐に出陣したが、古川・高泉(高清水)・一迫氏ら大崎氏一族の他、重臣の氏家氏まで叛乱に加担し、大崎家中を二分する大規模な内訌となった。翌年、義直は頼遠の拠る泉沢城を攻撃して降し、頼遠は古川氏の居城古川城に逃れた。その後は古川城が反義直方の拠点となった。その後、一旦は義直方の部将氏家清継が制圧していた岩手澤城が、再び叛乱軍の氏家安芸守によって奪還され、更に高泉直堅が義直方の諸城に火を放って古川氏を援けた。こうして家中の内訌を独力で鎮圧できなくなった義直は、1536年に桑折西山城に自ら出向いて伊達稙宗に援軍を要請し、これを大崎氏への影響力拡大の好機と捉えた稙宗は支援を承諾して、自ら三千余騎を率いて大崎領に進軍した。伊達勢は師山城を拠点に古川城を攻撃し、義直は伊達氏の援軍によって古川城を落とし、その後叛乱軍の最後の拠点となった岩手澤城を2ヶ月に渡る攻城戦の末に出羽の最上義守の調停で開城させて、義直はようやく叛乱を平定した。乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びた。その後の泉沢城は、大崎義隆(義直の子)の家臣遠藤和泉守の居城であったと言われるので、遠藤氏に与えられた様である。

 泉沢城は、大崎氏の居城とされる名生城から、谷戸を挟んですぐ北の台地辺縁部に位置している。比高20m程の台地の南東端部に築かれており、昭和30年代後半の航空写真を見ると空堀で区画された東西2郭で構成されていた様で、東の広い曲輪が主郭であろう。主郭は現在は畑となっているが、曲輪の形は往時のまま残っており、西辺には土塁が残存している。北西隅には辛うじて建っている倒れかけたお堂があり、その背後には隅櫓台の土壇がある。西の二ノ郭も畑になっているが、主郭との間の空堀は埋められて湮滅している。二ノ郭周囲も切岸や空堀で防御されていたと思われるが、周囲は全て耕地化しており、旧状はかなり失われている。また以前は南麓の宅地前に城址標柱が立っていた様だが、現在はなくなっている。対岸の名生城と同様、辛うじて遺構が残る城である。遺構はあまり期待できないが、名生城との近さを考えれば、泉沢城が大崎氏にとって重要な城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.617072/140.893221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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