SSブログ

猿壁城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4512.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 猿壁城は、小田城主小田氏の庶流上曽氏が築いた詰城と言われている。上曽氏は、小田氏 2 代知重の4男知賢が上曽郷に分封されて、上曽氏を称したことに始まる。上曽城を居城とし、有事の際の詰城として猿壁城を築いたらしいが、築城時期は不明である。よく城巡りの参考にさせていただいているHP「北緯36度付近の中世城郭」では、高所に築かれた気合の入った城の姿は、抗争の緊迫感の反映と考えられ、現在残る猿壁城は小田氏が佐竹氏の侵攻に曝されていた戦国後期に整備されたもの、と推測している。しかし結局小田氏は佐竹氏の激しい攻勢の前に衰退を余儀なくされ、上曽氏は佐竹氏に服属した。佐竹氏が出羽秋田に移封となると、上曽氏も佐竹氏に従って秋田に移り、この地を離れた。

 猿壁城は、足尾山から東南東に伸びる尾根上の、標高241.8m、比高190m程の猿壁山に築かれている。登り道がよくわからなかったので、1/25000地形図に記載されている登道の内、比較的傾斜がゆるいと思われた南東麓からのルートを選択した。しかしこれが大誤算であった。南東尾根のルートは、途中までは踏み跡もあり、緩い上り坂が続いていたが、しばらくすると目の前に急峻な断崖の様な斜面が立ち塞がった。厳しい急斜面の直登となり、かなりの苦労を強いられた。高齢の方は、このルートは絶対にやめた方が良い。何とか登りきると、山上の広く緩やかな尾根に至る。ここはもう城域で、主郭南東の曲輪群に当たる。ほとんど自然地形に近く、削平は甘く、切岸も不明瞭である。しかし主郭とは明確な切岸で区画され、切岸前には浅い片堀切が穿たれている。主郭は、内部が数段に分かれているようだが、三角点のある頂部平場とその周囲の平場との間だけ、比較的段差が明瞭だが、それ以外は段差が明確ではなく、全体に傾斜した曲輪である。しかし外周の塁線は明確で、北側には虎口もある。この虎口は主郭とその西側にある二ノ郭との間を分断する堀切に繋がっている。最初、搦手虎口かと思ったが、南東曲輪群の防御性の甘さと主郭背後の遺構の充実度を考えると、こちらが大手虎口らしい。大手と思った南東尾根筋は、自然地形の急斜面で守られているので、登城道はなかったと考えた方が適切な様だ。主郭背後には円弧状に堀切が穿たれ、その先に小さな二ノ郭がある。主郭堀切は、北面に竪堀となって落ちる一方、主郭北側に向かって横堀が繋がっており、東へと下っている。二ノ郭の北面と西面には低土塁が築かれ、北側に土塁で囲まれた小さな腰曲輪、南西には虎口が築かれている。二ノ郭の背後も円弧状の堀切が穿たれているが、主郭のものと比べるとかなり浅く、形状としては横堀に近い。二ノ郭の南西尾根がどうやら大手らしく、腰曲輪群が6~7段築かれている。その先には二重枡形らしい進入路も見られるが、規模が小さく不明瞭である。猿壁城は、主郭背後の遺構は比較的しっかりとした遺構であるものの、あまり大規模な普請は見られず、峻険な地勢そのものを武器とした城であったことが窺われる。
二ノ郭の堀切→IMG_4495.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.272208/140.164926/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー