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湯崎城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6102.JPG←空堀と北出曲輪
 湯崎城は、宍戸城主宍戸氏の支城である。南北朝期の1344年に、宍戸安芸守朝里 (朝重)によって築かれたと言われるが、別説では鎌倉初期の1203年に築かれたともされる。どちらが正かは不明であるが、いずれにしも宍戸城防衛のために築かれた城だということは共通している。1481年、水戸城主江戸通長は、涸沼川南岸の小幡地方への進出を企て、小幡氏を攻撃した。小幡城の小幡氏は、宍戸氏・笠間氏・大掾氏らに援軍を要請し、同年5月5日、小幡・宍戸・笠間等の連合軍は江戸軍と、小鶴原で激突した。この時、連合軍三千余騎は、湯崎城に集結したと言う。この小鶴原合戦で、小幡・宍戸等の連合軍は江戸氏の攻撃を凌ぎきり、江戸勢は水戸城に退却した。戦国後期になると佐竹氏の勢力が伸長し、宍戸氏は一定の独立性を保ちつつ佐竹氏に従った。1590年、豊臣秀吉から常陸一国を安堵された佐竹義宣は、豊臣政権の権威を背景に常陸南部諸豪を武力で制圧する一方、佐竹氏に従っていた宍戸氏ら諸豪は佐竹氏の家臣と見做され、その後の佐竹氏領内の領地替えで、宍戸氏は海老ヶ島城に移された。1602年に、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、湯崎城は廃城となった。

 湯崎城は、涸沼川北岸の比高15m程の段丘辺縁部に築かれている。市道から東に小道を入って行くと城の入口に至る。往時の大手虎口であったと思われ、土橋が架かり、その両側には土塁と空堀が築かれている。ここは主郭の北辺部に当たる。この虎口の東側にやや離れて、土塁囲郭の北出曲輪が築かれている。虎口防衛の堡塁であったのだろう。土塁で囲まれた小さな曲輪なので、窪地の様に見える。統治拠点の政庁的城だったらしく、主郭は極めて広く、東に伸びている。現在は主郭の東半分は果樹園と民家になっており、遺構の湮滅が進んでいて、明確な城域は確定できないが、おそらく東の市道までが城域だったのだろう。基本的にはただだだっ広い主郭だけの単郭の城で、その西面と南面に一段低く帯曲輪を延々と廻らしている。主郭側に低土塁も散見される。数年前までは比較的よく整備されていたようだが、現在はかなり放置されていて薮が多く、虎口近くにある城址碑も藪に埋もれていて、最初どこにあるかわからなかったほどである。藪が酷い上、遺構面でも特筆すべき物が少なく、少々物足りない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.303825/140.323477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0



改訂版 図説 茨城の城郭

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