SSブログ

手葉井山城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8069.JPG←主郭背後の第1堀切
 手葉井山城は、茨城県の遺跡地図では長峰砦、或いは手葉井山砦と記載され、歴史不詳の城である。一説には、小田氏治が佐竹・太田・真壁連合軍と戦って敗れた、手這坂合戦に関わる城砦ではなかったかと推測されている。
 手這坂の戦いとは、1569年(1573年説もある)に小田城主小田氏治が、佐竹氏に奪われてその客将太田三楽斎資正・梶原政景父子が守っていた片野柿岡両城を攻撃するため、筑波山東麓の手這坂に出陣したことから生起した。資正は、常陸太田城主佐竹義重・真壁城主真壁氏幹に援軍を要請し、両軍は手這坂で激突した。激戦の末に小田勢は敗れ、更に太田・真壁両氏の別働隊によって小田城を奪われた為、敗れた氏治は居城に戻ることができず、土浦城へと敗走したと言う。

 手葉井山城は、筑波山の南東に広がる山地の中の、標高232mの支尾根に築かれた城である。南東の尾根筋にある山道が城跡まで通じているので、場所がわかればほとんど迷わずに訪城できる。多数の曲輪群で構成された、中々城域の広い城で、前述の山道を登っていくと最初に出くわすのが南東尾根の前衛郭群である。横堀が穿たれ、その前面に堡塁を築き、堡塁の周囲もV字状の横堀で防御し、V字横堀の北西端部には土橋が架かって城外に通じている。この前衛郭群の先に進むと、山道が切り通し状に尾根を貫通し、山腹を南方向に伸びる城道となっている。この城道の上の尾根上には、何段もの曲輪が連なっている。段差があるのはわかるが藪がかなり多く、全容が掴めない。前述の城道に対して、曲輪の南端部では横矢掛かりの櫓台が築かれている。この主尾根の曲輪群の最上段が主郭と思われ、背後にU字型に土塁を築いている。主郭の西尾根には、断続的に5つの堀切が穿たれ、いずれも土橋が架かっている。それぞれの堀切の間には小郭があり、特に第2堀切と第3堀切の間は大きな土壇を持ったやや広い曲輪となっている。5つの堀切の更に後部(西側)には詰丸の様な遺構があり、小ピークの周囲に横堀や竪堀を複雑に絡めている。一方、主郭群の北支尾根・南東支尾根・東尾根にもそれぞれ腰曲輪群が連なり、北支尾根は先端に小堀切、南東支尾根では先端部に横堀、東尾根では2つの横堀が穿たれて尾根筋を防御している。またこれらの支尾根の遺構には竪堀状の城道も散見される。手葉井山城は、どちらかと言うと曲輪群を連ねただけの素朴な縄張りであるが、それにしては規模が大きく、横堀など全体に遮断系構造を重視している。手這坂合戦との関係は何とも言えないが、片野・柿岡両城を落とされて領国防衛に迫られた小田氏が、敵勢監視と間道防衛の為に築いた城ではなかったかと想像される。
第2堀切の土橋→IMG_8058.JPG
IMG_8233.JPG←南東支尾根曲輪群の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210979/140.133898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


続 図説 茨城の城郭

続 図説 茨城の城郭

  • 作者: 茨城城郭研究会
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/07/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー