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桐の木坂城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1749.JPG←主郭背後の堀切
 桐の木坂城は、国峰城主小幡信貞の持城と伝えられる。小幡氏以前には、この地域一帯を領した高田氏の城であったと推測されている。高田大和守繁頼は桐の木坂城以外にも西牧地区に多くの城砦を築いて甲斐武田氏の侵攻に抗したが、1561年には高田氏は武田信玄に降っており、それ以後は桐の木坂城を含むこれらの城は放置されたと思われる。1582年の武田氏滅亡後、小田原北条氏が上野をほぼ手中に収めると、小幡氏は北条氏に降り、この頃に高田氏の城を修築したか、或いは新規築城によって桐の木坂城が整備されたと考えられている。天正壬午の乱での対陣後、徳川家康との和睦が成った北条氏直は信濃から兵を引き、上野・信濃国境の松井田西牧両城を直轄地として強化し、この時期に両城の連絡と後方の備えとして桐の木坂城を築城したとも推測されている。1590年の小田原の役で北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入部すると、宮崎城に奥平信昌が入城していることから、この頃には桐の木坂城は廃城になったと思われる。

 桐の木坂城は、小坂川東岸の山上に築かれている。『境目の山城と館 上野編』に「下仁田地区の城は、山が険しく、十分な広さを確保できないために、山上の砦は物見烽火台として使われ、主要部分が中段及び山麓に置かれる例が多く・・・」と記載されている通り、山麓台地上の緩斜面の高台に居館を置き、その背後の細尾根に小城砦を築いている。この城に登るには、南西麓の県道196号線脇から民家の前を通る坂小道が伸びているので、それを登るとよいのだが、傍目には民家の私道のような道なので、ちょっと登るのに躊躇してしまう。道を登りきると、広い緩斜面に出る。耕作放棄地となっており薮に覆われているが、ここが馬場平と呼ばれる下曲輪である。特に明確な遺構は見られない。そこから北西に笹薮を抜けると、切岸に囲まれた中曲輪群に至る。中斜度の斜面上に何段もの曲輪を築いており、最上段は小さな方形の区画となっている。見るからに屋敷地という感じで、井戸跡らしい窪みも残っている。ここから北側の細尾根に道が伸びており、尾根上に虎口が築かれている。この尾根上に小城砦が築かれているが、主郭以外は「尾根上は幅1mほどで曲輪としては殆ど用をなさない」(『境目の山城と館 上野編』)と記されている通りの状況である。細尾根の西端や主郭に向かう途中には物見台が築かれている。唯一平面的な広さを持った主郭は、東西両端に堀切を穿ち、北西辺に低土塁を築いている。しかし小屋掛け一つ建てれば、それでいっぱいになってしまう程度の広さしかない。主郭の東も細尾根で、結局山上の砦でまともに兵が置けるのは主郭だけである。桐の木坂城は、中段の中曲輪を主体とした城だった様である。
 尚、山上の砦に登った時、主郭に鹿が2頭いたらしく、ダッシュで逃げていくのが遠目に見えた。
中曲輪の上段平場→IMG_1724.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【山麓の中曲輪】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.261949/138.748505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【山上の砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.262451/138.749020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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タグ:中世平山城
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