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嵩山城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2057.JPG←小天狗から見た嵩山城全景
 嵩山城は、岩櫃城主斎藤氏滅亡の城である。斎藤氏は岩櫃城を拠点に勢力を張り、関東管領山内上杉氏の麾下に属していた。上杉氏が小田原北条氏に逐われて没落すると、斎藤越前守憲広は勢力拡大を狙って、三原庄の鎌原氏と争うようになった。鎌原氏は甲斐の武田信玄を頼り、一方の憲広は白井長尾氏を通じて越後の上杉謙信を頼った。1563年、信玄は真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃した。10月に岩櫃城が落城すると、憲広は謙信を頼って越後に逃れたが、末子の城虎丸を池田佐渡守重安と共に嵩山城に入れて守らせ、武田方の拠点となった岩櫃城と対峙した。翌年より武田勢による嵩山城攻撃が開始された。65年には、憲広の嫡男憲宗が上杉勢の加勢を得て嵩山城に入った。一方、武田勢の主将真田幸隆は、嵩山城の支城である仙蔵城(内山城)を攻略し、ここに本陣を置いて嵩山城を攻撃した。幸隆は斎藤方の池田重安父子を調略し、11月半ばに五段田原で斎藤勢と激戦を交えた。その翌朝、真田勢は朝駆けして嵩山城一の木戸を激闘の末に突破し、嵩山城に攻め上がった。夜には憲宗は自刃し、城虎丸と一族郎党・女房子供は大天狗の岩上より身を投げて斎藤氏は滅亡した。

 嵩山城は、吾妻地域で特異な威容を誇る、標高789.2m、比高240mの嵩山に築かれている。南麓に道の駅があり、またハイキングコースも整備されているので、城へのアクセスは非常に良い。2つの登山道の内、西の表登山道から登ると、入口付近に何段かの平場があり、これが激戦の展開された一の木戸である。一部公園化で改変されているが、ほぼ往時の形態を留めている様である。ここから延々と登山道を登ると、嵩山の尾根南西部の鞍部に至る。ここには尾根に沿って段々に曲輪群が見られ、城内では最も居住性のあるエリアである。山上には、南西から順に小天狗・中天狗・大天狗と呼ばれる突き立った岩塊があり、それらの間の尾根に曲輪を築いて城としているが、あまり城兵のいるスペースがない。主郭は「実城の平」と呼ばれる小さな平坦地で、その下に二ノ郭と思われる平場が広がっている。その他、派生する尾根に曲輪群が見受けられるがいずれも大した規模ではない。また山自体が峻険な岩塊でできているせいか、堀切は自然地形をそのまま利用したもの以外は普請されていない。遺構としては大したものではなく、滅亡間近の悪あがきの城だった様である。それにしてもこの嵩山は、吾妻地域のどの城からもよく見え、また目立つ山なので、武田方に対しての精神的な嫌がらせにはもってこいだったろうと思う。山上からの眺望は素晴らしいので、城としてよりハイキングに適した城である。
主郭の「実城の平」→IMG_2099.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.612625/138.830130/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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タグ:中世山城
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