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山田城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2507.JPG←少し周囲より高い主郭
 山田城は、古城とも呼ばれ、岩櫃城主斎藤氏の家臣山田氏の居城ではなかったかと推測されている。即ち、岩櫃城の支城ということになる。山田氏は斎藤氏の一族で、1563年の真田幸隆による岩櫃城攻撃によって、越後に落ちてゆく斎藤越前守の供をして国境まで行き、嵩山城に拠る末子城虎丸のことなど後事を託された。山田城主は山田源太左衛門尉と伝えられて、斎藤氏没落後の動向は不明。一説には、永禄年間(1558~69年)に成田氏と戦って討死したとも言う。いずれにしてもこの頃に廃城になった様である。

 山田城は、標高509m、比高120m程の丘陵上に築かれている。起伏はあるものの、全体的になだらかな地形で、あまり城を築くのに適地とは思えない感じである。城自体の作りもかなり大雑把で、とらえどころがない。内山城と同様、2016年の大河ドラマ「真田丸」効果で、城までの誘導標識・表示がわかりやすく掲示されており、城までの道に迷うことはない。城の西側を通る車道脇に標柱と解説板が建っており、そこから小道を東に進んでいくと、主郭に至る。城内は、東西に伸びる舌状丘陵が北と南にあり、その中央に低地を挟んでいる。北の丘陵部が主城域で、中央に方形に近い高台となった主郭を置き、西に二ノ郭が広がっている。主郭と二ノ郭の段差はわずかである。二ノ郭の西側にも何段かの腰曲輪が築かれている。一方、主郭の東側には堀切を挟んで三ノ郭が広がっている。この堀切は浅く、傾斜も緩く、鋭さはない。三ノ郭の中央付近にはわずかな土塁があるが、意図は不明である。三ノ郭の東側に数段の腰曲輪が築かれて、先端は谷戸に落ち込んでいる。これらの主城部の南側には低地があり、東に向かって傾斜し、下方には池が残り「水の手曲輪」の標柱が建っている。その東にはY字状の谷が刻まれている。これらの低地の南に、高台となった南曲輪群がある。南曲輪群の先端部には、西端に高台を築き、東に平場を伴った曲輪を設け、背後に堀切を穿っている。この堀切も前述のものと同様、傾斜が緩く鋭さはない。その西側には延々と平場が広がり、一部に区画の段差や、南辺に短い土塁も見られるが、全体にダラーッとした感じである。平場群の北辺近くに往時のものと思われる城道が東西に走っていて、西側の曲輪の段差部で、城道が屈曲して虎口を形成している。
 遺構から推測すると、山田城は山田氏の居館として築かれた城館で、周りの平場には山田氏家臣団が集住していたものであろう。ということは近くに有事の際の詰城があったはずであり、それが桑田城だったのか、高野平城だったのか、今後の考究が望まれる。
中央の低地にある水の手曲輪→IMG_2522.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.589180/138.804123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世平山城
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