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横尾八幡城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2735.JPG←主郭の土塁と虎口
 横尾八幡城は、沼田・吾妻地域に進出した真田昌幸の支城である。元々は大永年間(1521~28年)に尻高三河守によって築かれたと言われている。後に塩原源太左衛門が城代となった。1580年に武田勝頼の部将、真田昌幸が吾妻地域に進出するとその持城となり、富沢豊前守が配された。1582年に武田氏が滅亡し、その後上州を支配した織田信長の部将滝川一益も本能寺の変の後、神流川の戦いで大敗して本領の伊勢に逃れると、北条氏が上州を手に入れた。その際、天正壬午の乱での徳川家康との和睦の条件で、真田氏の沼田・吾妻領が北条氏に割譲されたが、真田昌幸はこれを拒絶して抵抗した。1584年に上田城を築いて居城とした昌幸は、嫡男信幸に利根・吾妻2郡の守りを命じ、信幸は北条氏の侵攻に備えて吾妻の武士達を横尾八幡城の番衆にして守らせた。1589年、鉢形城主北条氏邦の家臣猪俣邦憲が名胡桃城を攻め落とした、いわゆる名胡桃城事件を契機に始まった吾妻合戦の時、北条氏邦は岩櫃城を攻め、北条方の部将富永助重は300騎を率いて横尾八幡城に攻め寄せたが、真田方は富沢豊前守らが固く城を守り、また岩櫃城から後詰めも出て、北条勢を撃退した。この後、豊臣秀吉の小田原の役となったため、北条氏の軍勢は撤退した。

 横尾八幡城は、名久田川西岸の標高420m、比高60m程の丘陵上に築かれている。町の指定史跡なので、城への登り口に解説板が立ち、城の西尾根まで車道が延びており、訪城は容易である。しかし残念ながら、主要部以外は藪だらけで、腰曲輪等はほとんど未整備の薮に埋もれてしまっている。主郭を中心に2段の腰曲輪を巡らした環郭式の縄張りで、更に東尾根に舌状曲輪を置いているようである。しかし前述の通り主郭と西側の腰曲輪部分以外は薮が酷くて遺構の確認ができない。主郭は外周に土塁を築き、北辺以外の三方に虎口を開いている。腰曲輪には土塁や井戸跡が確認できるが、特に目を引く様なものではない。横尾八幡城は、基本的には小規模な城砦で、多くの兵を籠められたとも思われず、このレベルの小城を北条勢が落とせなかったのは本気で落とす気がなかったからではないかなどと想像してしまう。それにしても折角の指定史跡が薮で埋もれているのは、何とも勿体無い限りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.607140/138.871179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌

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タグ:中世平山城
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