内出城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]
←主郭の切岸
内出城は、岩櫃城主斎藤氏の家臣秋間氏の居城であったとされている。伝承では最初は秋間氏の館で、1349年に秋間刑部貞勝は里見兵庫と戦って主君吾妻太郎行盛と共に討死したと言う。貞勝の子泰則は、行盛の子千王丸を守って再挙を図り、1357年に上杉氏の支援によって里見氏を滅ぼし、吾妻を奪還した。千王丸は斎藤憲行と名乗り、内出城を築いて泰則に与えたとされる。その後、秋間氏は吾妻三家の一と称されたが、文明年間(1469~86年)に大野義衡に滅ぼされたと伝えられる。しかし岩櫃斎藤氏とその家臣の伝承は異聞もあって俄に史実とは見做し難い。上杉氏支援の話も、岩櫃城の項で記載した通り年代が合わないので、はっきりとしない。
内出城は、吾妻川東岸の段丘上に築かれている。現在は内出地区の集落となっており、城内は宅地や畑となっていて改変が進んでいる。しかし城の形は概ね追うことができる。南西端に主郭を置き、その東から南にかけてL字状の二ノ郭、更にその北東に向かって数個の曲輪を配した縄張りとなっている。曲輪の中で最も明瞭なのは主郭で、周囲の切岸の他、東と南の空堀の一部が残っている。その他の曲輪も北辺の切岸は明瞭で、特に先端の6郭はほぼ往時の姿を残していると推測される。また集落内には堀跡らしい水路や道路も見られる。この他、主郭の南西に車道を挟んで2つの櫓台と空堀・堀切の遺構が残っており、主郭以上に城跡らしさを残している。ここが城域最西端に当たるようだ。しかしいずれも民家が近い上、曲輪はいずれも民有地なので、訪城の際は不審者と間違われないよう、また迂闊に立ち入って不法侵入にならないよう注意が必要である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561066/138.818371/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
内出城は、岩櫃城主斎藤氏の家臣秋間氏の居城であったとされている。伝承では最初は秋間氏の館で、1349年に秋間刑部貞勝は里見兵庫と戦って主君吾妻太郎行盛と共に討死したと言う。貞勝の子泰則は、行盛の子千王丸を守って再挙を図り、1357年に上杉氏の支援によって里見氏を滅ぼし、吾妻を奪還した。千王丸は斎藤憲行と名乗り、内出城を築いて泰則に与えたとされる。その後、秋間氏は吾妻三家の一と称されたが、文明年間(1469~86年)に大野義衡に滅ぼされたと伝えられる。しかし岩櫃斎藤氏とその家臣の伝承は異聞もあって俄に史実とは見做し難い。上杉氏支援の話も、岩櫃城の項で記載した通り年代が合わないので、はっきりとしない。
内出城は、吾妻川東岸の段丘上に築かれている。現在は内出地区の集落となっており、城内は宅地や畑となっていて改変が進んでいる。しかし城の形は概ね追うことができる。南西端に主郭を置き、その東から南にかけてL字状の二ノ郭、更にその北東に向かって数個の曲輪を配した縄張りとなっている。曲輪の中で最も明瞭なのは主郭で、周囲の切岸の他、東と南の空堀の一部が残っている。その他の曲輪も北辺の切岸は明瞭で、特に先端の6郭はほぼ往時の姿を残していると推測される。また集落内には堀跡らしい水路や道路も見られる。この他、主郭の南西に車道を挟んで2つの櫓台と空堀・堀切の遺構が残っており、主郭以上に城跡らしさを残している。ここが城域最西端に当たるようだ。しかしいずれも民家が近い上、曲輪はいずれも民有地なので、訪城の際は不審者と間違われないよう、また迂闊に立ち入って不法侵入にならないよう注意が必要である。
城域最西端の空堀と櫓台→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561066/138.818371/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平城