子王山城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]
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子王山城は、歴史不詳の城である。創築には2説あり、『日本城郭大系』では天慶の乱(平将門の乱)の時に多胡政兼が築いたとし、現地解説板では平将門の家臣柴崎兵部景家が築いたと書かれている。しかし時代が古すぎて証明できず、にわかには信じがたい。一方、時代は下って戦国時代には、関東を逐われた関東管領山内上杉憲政から上杉家の名跡と関東管領職を譲られた長尾景虎(後の上杉謙信)が、三国峠を越えて関東に出馬したが、平井城奪回に際し、甥の長尾喜平次景勝(後の上杉景勝)がこの城に入ったとされ、その為「喜平次の城」と呼ばれるようになったとも言われる。しかし、景虎が平井城を奪還したのは1560年で、景勝はまだ4歳であった。また平井城は間もなく廃城となっているので、この伝承も信じ難い。結局のところ、子王山城の歴史は定かではない。
子王山城は、標高551mの子王山に築かれている。よく目立つ山で、遠くから見ると木がまばらにボサボサと突き立って生えているのがパンク・ロック・ミュージシャンのヘアースタイルに似ていることから、妻との間では「パンク山」と呼んでいる。比高のある山だが、幸い南東の鞍部まで車道が延びており、そこから登山道も整備されているので、高低差100m程で苦労なく訪城することができる。基本的には小規模な物見的な城砦で、山頂の小さな主郭の周りに数個の腰曲輪を廻らし、北東と北西の尾根にいくつかの曲輪を配しただけの簡素な縄張りである。明確な堀切は北東尾根の先にあるが、規模はかなり小さい。遺構にはあまり期待できないが、物見の砦としては絶好の位置にあり、北西尾根からは眼下に平井金山城と高山城がよく見える。平井金山城の背後を押さえる物見砦だったものと推測される。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.197291/139.003594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
子王山城は、歴史不詳の城である。創築には2説あり、『日本城郭大系』では天慶の乱(平将門の乱)の時に多胡政兼が築いたとし、現地解説板では平将門の家臣柴崎兵部景家が築いたと書かれている。しかし時代が古すぎて証明できず、にわかには信じがたい。一方、時代は下って戦国時代には、関東を逐われた関東管領山内上杉憲政から上杉家の名跡と関東管領職を譲られた長尾景虎(後の上杉謙信)が、三国峠を越えて関東に出馬したが、平井城奪回に際し、甥の長尾喜平次景勝(後の上杉景勝)がこの城に入ったとされ、その為「喜平次の城」と呼ばれるようになったとも言われる。しかし、景虎が平井城を奪還したのは1560年で、景勝はまだ4歳であった。また平井城は間もなく廃城となっているので、この伝承も信じ難い。結局のところ、子王山城の歴史は定かではない。
子王山城は、標高551mの子王山に築かれている。よく目立つ山で、遠くから見ると木がまばらにボサボサと突き立って生えているのがパンク・ロック・ミュージシャンのヘアースタイルに似ていることから、妻との間では「パンク山」と呼んでいる。比高のある山だが、幸い南東の鞍部まで車道が延びており、そこから登山道も整備されているので、高低差100m程で苦労なく訪城することができる。基本的には小規模な物見的な城砦で、山頂の小さな主郭の周りに数個の腰曲輪を廻らし、北東と北西の尾根にいくつかの曲輪を配しただけの簡素な縄張りである。明確な堀切は北東尾根の先にあるが、規模はかなり小さい。遺構にはあまり期待できないが、物見の砦としては絶好の位置にあり、北西尾根からは眼下に平井金山城と高山城がよく見える。平井金山城の背後を押さえる物見砦だったものと推測される。
北東尾根の小堀切→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.197291/139.003594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城