立ヶ花城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]
←二ノ郭の堀切
立ヶ花城は、歴史不詳の城である。一説にはこの地に居館を構えた土豪草間氏が築いた城とも言われる。草間氏も出自が不明で、高梨氏の一族とも佐久方面から来住した一族とも言われる。対岸には手子塚城があるので、手子塚城と対峙しつつ、千曲川の渡し場を押さえていたものと推測される。尚「立ヶ花」は、「館ヶ端」の転訛かもしれない。
立ヶ花城は、千曲川と篠井川の合流点に突き出した丘陵先端部に築かれている。城内には高圧鉄塔が建つ他、北東の外郭に当たる部分は大きく土取りされてしまっており、やや改変を受けている。先端に主郭を置き、堀切を挟んで後部に二ノ郭、更に堀切があって外側に外郭を築いていた様だ。前述の通り外郭は消滅しているが、2つの曲輪と堀切はよく残っている。堀切は一直線状で横矢掛かりがないので、武田・上杉抗争期にはあまり重要視されていなかった様に思われる。遺構は残っているが、全体的に大薮に覆われ、堀切を越えて主郭に行くのも大変である。主郭の先にも段曲輪が2段あるらしいが、薮で確認できなかった。物見を主務とした簡素な城砦だった様である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.724748/138.310554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
立ヶ花城は、歴史不詳の城である。一説にはこの地に居館を構えた土豪草間氏が築いた城とも言われる。草間氏も出自が不明で、高梨氏の一族とも佐久方面から来住した一族とも言われる。対岸には手子塚城があるので、手子塚城と対峙しつつ、千曲川の渡し場を押さえていたものと推測される。尚「立ヶ花」は、「館ヶ端」の転訛かもしれない。
立ヶ花城は、千曲川と篠井川の合流点に突き出した丘陵先端部に築かれている。城内には高圧鉄塔が建つ他、北東の外郭に当たる部分は大きく土取りされてしまっており、やや改変を受けている。先端に主郭を置き、堀切を挟んで後部に二ノ郭、更に堀切があって外側に外郭を築いていた様だ。前述の通り外郭は消滅しているが、2つの曲輪と堀切はよく残っている。堀切は一直線状で横矢掛かりがないので、武田・上杉抗争期にはあまり重要視されていなかった様に思われる。遺構は残っているが、全体的に大薮に覆われ、堀切を越えて主郭に行くのも大変である。主郭の先にも段曲輪が2段あるらしいが、薮で確認できなかった。物見を主務とした簡素な城砦だった様である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.724748/138.310554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本
タグ:中世崖端城
小曽崖城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]
←主郭手前の堀切
小曽崖城は、この地の土豪新野氏が築いたとされる城である。しかし1463年に、新野氏は上杉氏の支援を受けて大熊氏と共に高梨氏と戦ったが敗れ、小曽崖城には高梨氏の家臣が入った。高梨氏の支配時代には、鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城・二十端城などと共に高梨氏の本拠防衛の一翼を担っていたと推測されている。
小曽崖城は、標高590mの山上に築かれている。城を巻くように山道が付いているが、未舗装路なので安全を見て南東麓の動物除けの電撃柵の付近に車を駐めて延々と歩いたが、普通に走れる道だった。小曽崖城は590mの峰から北東に伸びる尾根が城の主部で、北西に伸びた尾根の先にも出城が築かれている。
まず北西の出城は、細尾根上の曲輪の周囲に数段の腰曲輪を廻らした簡素な城砦で、後部に狼煙台とされる塚の様な土壇がある。また北斜面には上下の腰曲輪を繋ぐ竪堀状の城道も築かれている。アクセスは、前述の山道が鋭角に折れ曲がる所の電撃柵が取り外せるようになっており、そこから尾根筋を辿ればよい。
主城部は、北東尾根の西側に堀之内No.5鉄塔の保守道があり、この道を使って取り付くことができる。鉄塔の建っている曲輪の先に小堀切があり、更に尾根の平場が広がっている。先端付近には数段の小郭群が築かれている。この付近に旗塚と言う塚があるらしいのだが、形が崩れてしまっているのか、よくわからなかった。一方、鉄塔から南西に尾根を辿ると、多数の段曲輪群が続き、3本の小堀切の先に頂部の主郭がある。主郭は後部に低土塁を築き、背後に堀切が穿たれている。その先にも小堀切があって城域が終わっている。
小曽崖城は、城域は広いが基本的には細尾根城郭で、曲輪も堀切もいずれも規模が小さい。全体的に普請が小規模で大した防御性がなく、まるで村の城(村人の逃げ込み用の城のこと)の様である。おまけに尾根筋はほとんど未整備で、しかも今春は暖かかったために草木の生い茂るのが早く、踏査がなかなか大変だった。主城から更に南に尾根を登ったところに砦の遺構もあるらしいのだが、藪尾根で踏破が難しいと判断し、行くのは諦めた。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【本城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.713654/138.369005/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【北西の出城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.716165/138.365014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
小曽崖城は、この地の土豪新野氏が築いたとされる城である。しかし1463年に、新野氏は上杉氏の支援を受けて大熊氏と共に高梨氏と戦ったが敗れ、小曽崖城には高梨氏の家臣が入った。高梨氏の支配時代には、鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城・二十端城などと共に高梨氏の本拠防衛の一翼を担っていたと推測されている。
小曽崖城は、標高590mの山上に築かれている。城を巻くように山道が付いているが、未舗装路なので安全を見て南東麓の動物除けの電撃柵の付近に車を駐めて延々と歩いたが、普通に走れる道だった。小曽崖城は590mの峰から北東に伸びる尾根が城の主部で、北西に伸びた尾根の先にも出城が築かれている。
まず北西の出城は、細尾根上の曲輪の周囲に数段の腰曲輪を廻らした簡素な城砦で、後部に狼煙台とされる塚の様な土壇がある。また北斜面には上下の腰曲輪を繋ぐ竪堀状の城道も築かれている。アクセスは、前述の山道が鋭角に折れ曲がる所の電撃柵が取り外せるようになっており、そこから尾根筋を辿ればよい。
主城部は、北東尾根の西側に堀之内No.5鉄塔の保守道があり、この道を使って取り付くことができる。鉄塔の建っている曲輪の先に小堀切があり、更に尾根の平場が広がっている。先端付近には数段の小郭群が築かれている。この付近に旗塚と言う塚があるらしいのだが、形が崩れてしまっているのか、よくわからなかった。一方、鉄塔から南西に尾根を辿ると、多数の段曲輪群が続き、3本の小堀切の先に頂部の主郭がある。主郭は後部に低土塁を築き、背後に堀切が穿たれている。その先にも小堀切があって城域が終わっている。
小曽崖城は、城域は広いが基本的には細尾根城郭で、曲輪も堀切もいずれも規模が小さい。全体的に普請が小規模で大した防御性がなく、まるで村の城(村人の逃げ込み用の城のこと)の様である。おまけに尾根筋はほとんど未整備で、しかも今春は暖かかったために草木の生い茂るのが早く、踏査がなかなか大変だった。主城から更に南に尾根を登ったところに砦の遺構もあるらしいのだが、藪尾根で踏破が難しいと判断し、行くのは諦めた。
北西の出城の曲輪→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【本城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.713654/138.369005/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【北西の出城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.716165/138.365014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本
タグ:中世山城
雁田城(長野県小布施町) [古城めぐり(長野)]
←小城の多段石垣
雁田城は、苅田城とも表記され、高梨氏が築いた城砦群の一つと考えられている。正確な歴史は不明で、一説には古代アイヌの築いたチャシであるとか、3~4世紀頃(古墳時代)の大和朝廷の東征時の柵から始まったとも言われる。中世には、鎌倉時代に苅田式部太夫繁雅の居城であったとする伝承や、室町時代に荻野備後守常倫が城主であったと言う伝承も残るが、裏付けられる史料がなく苅田氏・荻野氏の実在は不明である。比較的史実に近いと思われるのは高梨氏との関係で、1489年以降この地域は高梨氏の支配下となり、1561年に武田信玄が高井地方を支配下に置くまでの間、高梨氏による支配が続いた。その間、雁田城・二十端城・滝ノ入城がこの山塊にあり、高梨氏の支配地域の南部における防衛線であったと推測されている。
雁田城は、その根古屋があったと推測されている岩松院の背後にそびえる標高530m、比高190m程の山上に築かれている。山上の大城と西端のピークに築かれた小城の2つの城で構成されている。岩松院の北側の高台からハイキングコースが整備されており、そこからだと比高わずか40m程で小城に至る。
小城はほぼ単郭の小城砦であるが、主郭周囲には石垣多数築かれている。ほぼ方形の主郭を取り巻くように石垣が築かれ、南西には主郭に登る石段も見られる。石垣は、高石垣を築く石積み技術がなかったものと見え、南側では低いものが4段築かれている。そのせいもあって、石垣の規模は川中島城砦群の霞城や鷲尾城ほどではない。主郭背後には小さな土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれているが、その堀切に沿っても主郭側に石垣が積まれている。また、主郭の北西尾根にも堀切と小郭らしいものがあるが、あまり明瞭ではない。
一方、小城からかなり急峻な東の尾根を登っていくと、何段かの小郭を経て大城に至る。大城は東西に伸びる尾根に曲輪を連ね、堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。頂部に長方形の主郭を置き、その前面に1.5m程の段差でニノ郭を設け、その前面には堀切を穿って大手の尾根を分断している。主郭背後には小城と同じく土塁が築かれ、背後には深さ4~5mの堀切が穿たれている。その東側に三ノ郭があり、後部にわずかに石塁が築かれている。三ノ郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれている。ただ三重とは言っても、しっかり穿たれているのは内堀のみで、中堀・外堀は浅いので、実態を見ると畝状阻塞に近い。その東の4郭にも、中程に小堀切が穿たれている。更に背後に堀切があって5郭に至り、城域が終わっている。大城にも石垣はあるが部分的で、主郭の北東部や主郭の前面に小規模なものがあるだけである。
雁田城は、大城と小城でかなり様相を異にしており、築城思想やそれぞれの役割、築城時期の違いなどを想起させる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:【大城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.698705/138.338020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【小城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.699789/138.334994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
雁田城は、苅田城とも表記され、高梨氏が築いた城砦群の一つと考えられている。正確な歴史は不明で、一説には古代アイヌの築いたチャシであるとか、3~4世紀頃(古墳時代)の大和朝廷の東征時の柵から始まったとも言われる。中世には、鎌倉時代に苅田式部太夫繁雅の居城であったとする伝承や、室町時代に荻野備後守常倫が城主であったと言う伝承も残るが、裏付けられる史料がなく苅田氏・荻野氏の実在は不明である。比較的史実に近いと思われるのは高梨氏との関係で、1489年以降この地域は高梨氏の支配下となり、1561年に武田信玄が高井地方を支配下に置くまでの間、高梨氏による支配が続いた。その間、雁田城・二十端城・滝ノ入城がこの山塊にあり、高梨氏の支配地域の南部における防衛線であったと推測されている。
雁田城は、その根古屋があったと推測されている岩松院の背後にそびえる標高530m、比高190m程の山上に築かれている。山上の大城と西端のピークに築かれた小城の2つの城で構成されている。岩松院の北側の高台からハイキングコースが整備されており、そこからだと比高わずか40m程で小城に至る。
小城はほぼ単郭の小城砦であるが、主郭周囲には石垣多数築かれている。ほぼ方形の主郭を取り巻くように石垣が築かれ、南西には主郭に登る石段も見られる。石垣は、高石垣を築く石積み技術がなかったものと見え、南側では低いものが4段築かれている。そのせいもあって、石垣の規模は川中島城砦群の霞城や鷲尾城ほどではない。主郭背後には小さな土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれているが、その堀切に沿っても主郭側に石垣が積まれている。また、主郭の北西尾根にも堀切と小郭らしいものがあるが、あまり明瞭ではない。
一方、小城からかなり急峻な東の尾根を登っていくと、何段かの小郭を経て大城に至る。大城は東西に伸びる尾根に曲輪を連ね、堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。頂部に長方形の主郭を置き、その前面に1.5m程の段差でニノ郭を設け、その前面には堀切を穿って大手の尾根を分断している。主郭背後には小城と同じく土塁が築かれ、背後には深さ4~5mの堀切が穿たれている。その東側に三ノ郭があり、後部にわずかに石塁が築かれている。三ノ郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれている。ただ三重とは言っても、しっかり穿たれているのは内堀のみで、中堀・外堀は浅いので、実態を見ると畝状阻塞に近い。その東の4郭にも、中程に小堀切が穿たれている。更に背後に堀切があって5郭に至り、城域が終わっている。大城にも石垣はあるが部分的で、主郭の北東部や主郭の前面に小規模なものがあるだけである。
雁田城は、大城と小城でかなり様相を異にしており、築城思想やそれぞれの役割、築城時期の違いなどを想起させる。
大城の畝状阻塞(三重堀切)→
←大城主郭の石垣お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:【大城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.698705/138.338020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【小城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.699789/138.334994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
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タグ:中世山城
岩松院館(長野県小布施町) [古城めぐり(長野)]
←岩松院の北側に広がる平場
岩松院館は、雁田城の根古屋(居館)である。現在館跡付近に建っている岩松院は、1430年に荻野備後守常倫が開基したとされているが、雁田城主と伝えられる荻野氏の居館もこの付近にあったとされ、往時の居館と寺との位置関係は不明である。『信濃の山城と館8』では、寺より1段高い、寺の北側一帯の平場に根古屋があった可能性を指摘している。或いは他の居館によくある様に、居館跡に寺ができた可能性もあるが、その場合は寺の創建の伝承が合わなくなる。寺が館跡に移転してきたのであろうか?今後の考究が待たれるところである。
岩松院館は、前述の通り現在は岩松院が建っている。私は5月連休に行ったのだが、岩松院には観光客がいっぱい来ていて賑わっているので驚いた。境内に、賤ヶ岳七本槍で有名な福島正則の霊廟があるが、それを見に来ているわけでもない様である。葛飾北斎の八方睨鳳凰図という天井画を見に来ているのだろうか?そんなわけで落ち着いて見学するという訳にもいかなかったが、土塁などの明確な遺構は確認できない。結局のところ、位置的に雁田城の大手に当たることから、この付近に根古屋があったことは間違いないと推測されるだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.698395/138.334029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
岩松院館は、雁田城の根古屋(居館)である。現在館跡付近に建っている岩松院は、1430年に荻野備後守常倫が開基したとされているが、雁田城主と伝えられる荻野氏の居館もこの付近にあったとされ、往時の居館と寺との位置関係は不明である。『信濃の山城と館8』では、寺より1段高い、寺の北側一帯の平場に根古屋があった可能性を指摘している。或いは他の居館によくある様に、居館跡に寺ができた可能性もあるが、その場合は寺の創建の伝承が合わなくなる。寺が館跡に移転してきたのであろうか?今後の考究が待たれるところである。
岩松院館は、前述の通り現在は岩松院が建っている。私は5月連休に行ったのだが、岩松院には観光客がいっぱい来ていて賑わっているので驚いた。境内に、賤ヶ岳七本槍で有名な福島正則の霊廟があるが、それを見に来ているわけでもない様である。葛飾北斎の八方睨鳳凰図という天井画を見に来ているのだろうか?そんなわけで落ち着いて見学するという訳にもいかなかったが、土塁などの明確な遺構は確認できない。結局のところ、位置的に雁田城の大手に当たることから、この付近に根古屋があったことは間違いないと推測されるだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.698395/138.334029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本
タグ:居館
桝形城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]
←二ノ郭、奥が主郭
桝形城は、山田城とも言い、当初は仁科氏の庶流山田氏の居城、後に高梨氏の持ち城となった城である。里俗伝によれば応永年間(1394~1427年)に山田小四郎国政・能登守父子が築いて居城としたとされる。後に遠江よりこの地に来た原飛騨守隆昌が山田氏の幕下となり、桝形城を居城としたと言う。その後、高梨氏の持ち城となり、文明年間(1469~86年)には高梨氏の一族日向守高朝(山田高梨氏)が城主であったが、1484年、高野仏詣で留守中に本家の高梨刑部大輔政盛に城を奪われた。戦国後期になると、武田信玄の北信濃侵攻によって、高梨氏は敗れて越後の上杉謙信の元に逃れた。1557年には、川中島に出兵した上杉勢によって桝形城は一時的に奪還されたが、後にはまた武田氏の有に帰したと思われる。その後の城の歴史は不明である。
桝形城は、標高711m、比高170m程の山上に築かれている。山頂に主郭を置き、その南側に広いニノ郭を築いている。主郭には後部に土塁を築き、主郭の切岸全周におびただしい数の崩落した石垣跡が見られる。この石垣は残存部がほとんど無いので、おそらく破却の跡だろう。かなり徹底して破壊されている様である。また主城部周辺はかなり傾斜がきつく、4方向の尾根にそれぞれ曲輪群が築かれているのだが、城の後部に当たる北東・北西尾根の曲輪群は、主郭からきつい傾斜をかなり下った所にあり、主城部との連絡路が完全に途絶している。体力温存のため北東尾根の踏査は諦めたが、北西尾根を降り、3本の小堀切を確認した。主郭からこの堀切まで40m以上の高低差がある。また主郭背後の斜面には放射状竪堀群が穿たれているとされるが、見た限り竪堀群はほとんどわからない。ちなみに放射状竪堀は武田氏の山城によく見られるので、武田氏による改修の可能性もあるだろう。この他、登り口となっている東尾根・南尾根にも多数の曲輪群が築かれており、東尾根は馬蹄段で構成され、南尾根は横長の帯曲輪群で構成されている。これらの尾根途中にも石が散乱しており、石垣があった可能性がある。尚、東尾根曲輪群は、ニノ郭まであと少しというところで生い茂った薮と岩塊に阻まれ、迂回しながらの強行突破が必要なので、登る人は注意してほしい。
桝形城は、主郭・二ノ郭には建物を建てられるだけの広さがあるが、それ以外は小郭群だけで構成されている。山容が峻険であるためか、堀切も規模が小さく、縄張り的にはやや物足りなさを感じる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.692924/138.361580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
桝形城は、山田城とも言い、当初は仁科氏の庶流山田氏の居城、後に高梨氏の持ち城となった城である。里俗伝によれば応永年間(1394~1427年)に山田小四郎国政・能登守父子が築いて居城としたとされる。後に遠江よりこの地に来た原飛騨守隆昌が山田氏の幕下となり、桝形城を居城としたと言う。その後、高梨氏の持ち城となり、文明年間(1469~86年)には高梨氏の一族日向守高朝(山田高梨氏)が城主であったが、1484年、高野仏詣で留守中に本家の高梨刑部大輔政盛に城を奪われた。戦国後期になると、武田信玄の北信濃侵攻によって、高梨氏は敗れて越後の上杉謙信の元に逃れた。1557年には、川中島に出兵した上杉勢によって桝形城は一時的に奪還されたが、後にはまた武田氏の有に帰したと思われる。その後の城の歴史は不明である。
桝形城は、標高711m、比高170m程の山上に築かれている。山頂に主郭を置き、その南側に広いニノ郭を築いている。主郭には後部に土塁を築き、主郭の切岸全周におびただしい数の崩落した石垣跡が見られる。この石垣は残存部がほとんど無いので、おそらく破却の跡だろう。かなり徹底して破壊されている様である。また主城部周辺はかなり傾斜がきつく、4方向の尾根にそれぞれ曲輪群が築かれているのだが、城の後部に当たる北東・北西尾根の曲輪群は、主郭からきつい傾斜をかなり下った所にあり、主城部との連絡路が完全に途絶している。体力温存のため北東尾根の踏査は諦めたが、北西尾根を降り、3本の小堀切を確認した。主郭からこの堀切まで40m以上の高低差がある。また主郭背後の斜面には放射状竪堀群が穿たれているとされるが、見た限り竪堀群はほとんどわからない。ちなみに放射状竪堀は武田氏の山城によく見られるので、武田氏による改修の可能性もあるだろう。この他、登り口となっている東尾根・南尾根にも多数の曲輪群が築かれており、東尾根は馬蹄段で構成され、南尾根は横長の帯曲輪群で構成されている。これらの尾根途中にも石が散乱しており、石垣があった可能性がある。尚、東尾根曲輪群は、ニノ郭まであと少しというところで生い茂った薮と岩塊に阻まれ、迂回しながらの強行突破が必要なので、登る人は注意してほしい。
桝形城は、主郭・二ノ郭には建物を建てられるだけの広さがあるが、それ以外は小郭群だけで構成されている。山容が峻険であるためか、堀切も規模が小さく、縄張り的にはやや物足りなさを感じる。
主郭切岸の石垣跡→
←東尾根の段曲輪群お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.692924/138.361580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本
タグ:中世山城
福井城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]
←主郭~二ノ郭間の空堀
福井城は、天文年間に大岩城主須田氏の家臣牧伊賀守の居城であったと言われている。1553年に武田信玄の侵攻により、須田満親が越後の上杉謙信を頼って逃れると、牧氏もこれに従ったと伝えられる。その後、福井城は廃城になった。
福井城は、大平山の北西に広がる福井原と呼ばれる緩やかな斜面の縁に築かれている。居館から発達したと考えられる城で、南に方形の主郭を置き、その北にやはり方形の二ノ郭、その北に台形状の三ノ郭を直線的に配置し、更に南西側に広く外郭を置いた縄張りとなっている。一部山道で改変されているが、遺構は概ね良好に残っているが、城内はほぼ全域山林となっており、比較的薮が多い。いずれの曲輪も空堀で囲繞され、曲輪全体が北東に向かって傾斜している。空堀はいずれも直線状で、横矢掛かりは見られない。また土塁は、各曲輪の西側にだけ集中して築かれている。主郭では、北西角に虎口らしい土塁の切れ目があり、外側に向かって斜めに土橋が架かっている。こうした虎口・土橋形状は非常に珍しいが、後世の改変であろうか?また主郭内には段差があり、南東部の段差部には石垣も残っている。これも後世の耕地化による改変の可能性があるだろう。福井城は、林の中に堀が明瞭に残るが、縄張り的には単純で横矢掛かりもなく、面白みにはやや欠ける。また堀の規模もあまり大きくなく、あまり戦闘を意識した城ではなかった様である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.663892/138.395505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
福井城は、天文年間に大岩城主須田氏の家臣牧伊賀守の居城であったと言われている。1553年に武田信玄の侵攻により、須田満親が越後の上杉謙信を頼って逃れると、牧氏もこれに従ったと伝えられる。その後、福井城は廃城になった。
福井城は、大平山の北西に広がる福井原と呼ばれる緩やかな斜面の縁に築かれている。居館から発達したと考えられる城で、南に方形の主郭を置き、その北にやはり方形の二ノ郭、その北に台形状の三ノ郭を直線的に配置し、更に南西側に広く外郭を置いた縄張りとなっている。一部山道で改変されているが、遺構は概ね良好に残っているが、城内はほぼ全域山林となっており、比較的薮が多い。いずれの曲輪も空堀で囲繞され、曲輪全体が北東に向かって傾斜している。空堀はいずれも直線状で、横矢掛かりは見られない。また土塁は、各曲輪の西側にだけ集中して築かれている。主郭では、北西角に虎口らしい土塁の切れ目があり、外側に向かって斜めに土橋が架かっている。こうした虎口・土橋形状は非常に珍しいが、後世の改変であろうか?また主郭内には段差があり、南東部の段差部には石垣も残っている。これも後世の耕地化による改変の可能性があるだろう。福井城は、林の中に堀が明瞭に残るが、縄張り的には単純で横矢掛かりもなく、面白みにはやや欠ける。また堀の規模もあまり大きくなく、あまり戦闘を意識した城ではなかった様である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.663892/138.395505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本
タグ:中世崖端城
雨引城(長野県須坂市・高山村) [古城めぐり(長野)]
←土塁のある6郭
雨引城は、信濃源氏井上氏の庶流須田氏が築いた城と推測されている。須田氏の事績は須田城の項に記載する。須田氏の本城は大岩城で、雨引城はその背後にそびえる明覚山に築かれていることから、大岩城の背後を防衛する支城として大岩城と一体となって機能していたと考えられている。尚、雨引城のある明覚山には灰野峠を通る古道があり、上杉謙信が川中島への進軍路として使った道と伝えられ、謙信道と呼ばれている。雨引城はこの灰野峠のすぐ西に築かれているので、灰野峠を押さえ、物見の砦を兼ねた詰城となって須田郷・大岩郷全体を俯瞰して、背後を守る防衛線となっていたと思われる。
雨引城は、大岩城と月生城の背後にそびえる標高982mの明覚山に築かれている。最短で登れるのは東側の灰野峠からである。そこまで綺麗に整備された車道が通っており、車で城の間近まで登ることができる上、峠からはハイキングコースが整備されているので、楽に訪城できる。城自体は東西に長い細尾根上に曲輪を散発的に築いており、普請の規模は小さいが、明覚山山頂を中心に城域は東西750m程に及ぶ。尾根を東から登っていくと、最初に現れるのが6郭(以下、曲輪の名称は『信濃の山城と館8』に従う)で、城内で最も広い面積を持ち、北と東に土塁を築いている。この6郭が最も普請がきちんとされており、灰野峠を押さえることがこの城の最大の役目であったことがわかる。その先は尾根の途中途中に細尾根上の曲輪と背後の堀切がセットで2ヶ所現れ、山頂の主城部に至る。主郭も細尾根状の曲輪で、西端が一段高くなっている。居住性はなく、主郭と言っても物見の曲輪である。北側に腰曲輪があり、その東に鞍部のやや広い曲輪があり、二ノ郭となっている。小屋が置ける広さがあるのはこの二ノ郭だけである。北に腰曲輪を築き、東は小堀切を穿っている。その東のピークに3郭がある。3郭は北側に傾斜した曲輪で、南側は風除け土塁のようになっており、現在はそこに祠が祀られている。3郭の東側には規模は小さいが二重堀切が穿たれている。一方、主郭の西尾根にも散発的に細尾根の曲輪が4つあり、10郭には切岸にわずかな石積みが見られる。その先に二重堀切を挟んでピークがあり、物見状の11郭がある。11郭は円形の平場で、外周に腰曲輪や武者走りが付いていて、南側に小堀切があって城域が終わっている。以上が雨引城の縄張りで、6郭以外は普請が大雑把であり、灰野峠の確保と背後の防衛線に特化した城だった様である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.648245/138.347139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
雨引城は、信濃源氏井上氏の庶流須田氏が築いた城と推測されている。須田氏の事績は須田城の項に記載する。須田氏の本城は大岩城で、雨引城はその背後にそびえる明覚山に築かれていることから、大岩城の背後を防衛する支城として大岩城と一体となって機能していたと考えられている。尚、雨引城のある明覚山には灰野峠を通る古道があり、上杉謙信が川中島への進軍路として使った道と伝えられ、謙信道と呼ばれている。雨引城はこの灰野峠のすぐ西に築かれているので、灰野峠を押さえ、物見の砦を兼ねた詰城となって須田郷・大岩郷全体を俯瞰して、背後を守る防衛線となっていたと思われる。
雨引城は、大岩城と月生城の背後にそびえる標高982mの明覚山に築かれている。最短で登れるのは東側の灰野峠からである。そこまで綺麗に整備された車道が通っており、車で城の間近まで登ることができる上、峠からはハイキングコースが整備されているので、楽に訪城できる。城自体は東西に長い細尾根上に曲輪を散発的に築いており、普請の規模は小さいが、明覚山山頂を中心に城域は東西750m程に及ぶ。尾根を東から登っていくと、最初に現れるのが6郭(以下、曲輪の名称は『信濃の山城と館8』に従う)で、城内で最も広い面積を持ち、北と東に土塁を築いている。この6郭が最も普請がきちんとされており、灰野峠を押さえることがこの城の最大の役目であったことがわかる。その先は尾根の途中途中に細尾根上の曲輪と背後の堀切がセットで2ヶ所現れ、山頂の主城部に至る。主郭も細尾根状の曲輪で、西端が一段高くなっている。居住性はなく、主郭と言っても物見の曲輪である。北側に腰曲輪があり、その東に鞍部のやや広い曲輪があり、二ノ郭となっている。小屋が置ける広さがあるのはこの二ノ郭だけである。北に腰曲輪を築き、東は小堀切を穿っている。その東のピークに3郭がある。3郭は北側に傾斜した曲輪で、南側は風除け土塁のようになっており、現在はそこに祠が祀られている。3郭の東側には規模は小さいが二重堀切が穿たれている。一方、主郭の西尾根にも散発的に細尾根の曲輪が4つあり、10郭には切岸にわずかな石積みが見られる。その先に二重堀切を挟んでピークがあり、物見状の11郭がある。11郭は円形の平場で、外周に腰曲輪や武者走りが付いていて、南側に小堀切があって城域が終わっている。以上が雨引城の縄張りで、6郭以外は普請が大雑把であり、灰野峠の確保と背後の防衛線に特化した城だった様である。
3郭東の二重堀切→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.648245/138.347139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本
タグ:中世山城
月生城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]
←西の腰曲輪を刻む畝状竪堀
月生城は、信濃源氏井上氏の庶流須田氏が築いた城と推測されている。須田氏の本城は月生城の西側に隣接する大岩城で、月生城はその支城であった可能性がある。須田氏の事績は須田城の項に記載する。一方、月生城の背後には、明覚山を抜ける灰野峠を通る古道があり、上杉謙信が川中島への進軍路として使った道と伝えられ、謙信道と呼ばれている。そのため月生城は、上杉氏にとっても川中島への軍道を確保する為に重要な城であったと思われる。
月生城は、明覚山の北東に伸びる支尾根先端の標高710mのピークに築かれている。城への登り口は東尾根の麓にある。柵を入ると、明確な道はないが登りやすい尾根筋となる。ここを登っていくと僅かな小堀切があり、その先は東尾根曲輪群となっており、多数の小郭が連なっている。登り切ると城の中心部に至る。山頂に縦長の主郭があり、東面以外は土塁が築かれている。主郭内は2段の平場に分かれており、『信濃の山城と館8』では1郭・2郭と分けて認識しているが、段差も小さく一つの曲輪と見るべきである。主郭の先端には小さな囲郭があり、珍しい形態である。主郭の周囲にはコの字に腰曲輪が取り巻いている。主郭背後は堀切が穿たれており、そこから落ちる竪堀と連携して、東西の斜面にそれぞれ畝状竪堀が穿たれている。特に西斜面のものは腰曲輪を刻むように穿たれており、長野方面の城では珍しい形だと思う。主郭周囲の腰曲輪から北尾根と西尾根に曲輪群が伸びており、各々曲輪群の付け根と先端付近に堀切が穿たれている。東尾根曲輪群より北尾根曲輪群の方が曲輪のサイズが大きいので、こちらが大手だったことがわかる。主郭の南には、前述の堀切を介して二ノ郭があるが、郭内に岩がゴロゴロしていて居住性は悪い。後部に小さな土塁と堀切が築かれている。南尾根の先には小ピークがあり、堡塁であったとされている。月生城は、おびただしい数の曲輪を支尾根に築いて防御を固めた城で、軍道確保の重要性がその縄張りから窺われる。またこの地域では珍しい形の畝状竪堀や囲郭など、もしこれが上杉氏による構築だとしたら縄張り面でも興味深い。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.655320/138.351495/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
月生城は、信濃源氏井上氏の庶流須田氏が築いた城と推測されている。須田氏の本城は月生城の西側に隣接する大岩城で、月生城はその支城であった可能性がある。須田氏の事績は須田城の項に記載する。一方、月生城の背後には、明覚山を抜ける灰野峠を通る古道があり、上杉謙信が川中島への進軍路として使った道と伝えられ、謙信道と呼ばれている。そのため月生城は、上杉氏にとっても川中島への軍道を確保する為に重要な城であったと思われる。
月生城は、明覚山の北東に伸びる支尾根先端の標高710mのピークに築かれている。城への登り口は東尾根の麓にある。柵を入ると、明確な道はないが登りやすい尾根筋となる。ここを登っていくと僅かな小堀切があり、その先は東尾根曲輪群となっており、多数の小郭が連なっている。登り切ると城の中心部に至る。山頂に縦長の主郭があり、東面以外は土塁が築かれている。主郭内は2段の平場に分かれており、『信濃の山城と館8』では1郭・2郭と分けて認識しているが、段差も小さく一つの曲輪と見るべきである。主郭の先端には小さな囲郭があり、珍しい形態である。主郭の周囲にはコの字に腰曲輪が取り巻いている。主郭背後は堀切が穿たれており、そこから落ちる竪堀と連携して、東西の斜面にそれぞれ畝状竪堀が穿たれている。特に西斜面のものは腰曲輪を刻むように穿たれており、長野方面の城では珍しい形だと思う。主郭周囲の腰曲輪から北尾根と西尾根に曲輪群が伸びており、各々曲輪群の付け根と先端付近に堀切が穿たれている。東尾根曲輪群より北尾根曲輪群の方が曲輪のサイズが大きいので、こちらが大手だったことがわかる。主郭の南には、前述の堀切を介して二ノ郭があるが、郭内に岩がゴロゴロしていて居住性は悪い。後部に小さな土塁と堀切が築かれている。南尾根の先には小ピークがあり、堡塁であったとされている。月生城は、おびただしい数の曲輪を支尾根に築いて防御を固めた城で、軍道確保の重要性がその縄張りから窺われる。またこの地域では珍しい形の畝状竪堀や囲郭など、もしこれが上杉氏による構築だとしたら縄張り面でも興味深い。
土塁のある主郭→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.655320/138.351495/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本
タグ:中世山城
郷士谷津の砦(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭と腰曲輪
郷士谷津の砦は、伝承では稲葉筑前守と言う武士の城砦であったと言われている。稲葉氏の事績は不明であるが、高田氏に関係する人物と推測されているらしい。
郷士谷津の砦は、丘陵上に築かれている。比較的小規模な城砦で、頂部の主郭を中心に、周囲に環郭式に腰曲輪を巡らし、北側に堀切を穿った縄張りとなっている。西麓の集落から道が城内まで延びており、小型の車なら砦近くまで車で行ける。但し、前述の山道は砦の西側を貫通しているので、遺構はやや改変されてしまっている。曲輪はしっかりと削平され、普請は明瞭であるが、北側の堀切は小さく、どれほどの防御効果があったのかは疑問である。縄張りは比較的単純で、取り立てて特色もなく、パッとしない印象の城砦である。また城内は竹薮だらけで歩きにくく、状況も少々残念である。(一部整備の手は入っているが・・・)
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.280814/138.815711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
郷士谷津の砦は、伝承では稲葉筑前守と言う武士の城砦であったと言われている。稲葉氏の事績は不明であるが、高田氏に関係する人物と推測されているらしい。
郷士谷津の砦は、丘陵上に築かれている。比較的小規模な城砦で、頂部の主郭を中心に、周囲に環郭式に腰曲輪を巡らし、北側に堀切を穿った縄張りとなっている。西麓の集落から道が城内まで延びており、小型の車なら砦近くまで車で行ける。但し、前述の山道は砦の西側を貫通しているので、遺構はやや改変されてしまっている。曲輪はしっかりと削平され、普請は明瞭であるが、北側の堀切は小さく、どれほどの防御効果があったのかは疑問である。縄張りは比較的単純で、取り立てて特色もなく、パッとしない印象の城砦である。また城内は竹薮だらけで歩きにくく、状況も少々残念である。(一部整備の手は入っているが・・・)
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.280814/138.815711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
神成城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭の大土塁
神成城は、小幡氏が宮崎城の要害城(詰城)として築いたと推測されている。歴史不明であるが、宮崎城と一体として機能していたとすれば、宮崎城の歴史がそのまま神成城の歴史ということになるだろう。徳川家康が関東に入部した際に、奥平昌信が宮崎城に入城したが、その時神成城も改修を受けた可能性を『境目の山城と館 上野編』で指摘している。
神成城は、神農原の北に東西に連なる山地の一角の、270mの山上に築かれている。宮崎城の尾根続きにあり、西中学校の裏から神成山ハイキングコースが整備されており、迷わず城まで行くことができる。かなり広い大型の山城で、どの曲輪も広大である。宮崎城の裏から山道を進むと、見晴台を経由して城域最東端の出曲輪に至る。この出曲輪は、前面に峠道が通っており、堀切状になっている。また曲輪の南東角に土壇が築かれており、櫓台があったと考えられる。その先は自然地形の尾根が続いた後、東郭に至る。比較的小さな高台で、背後に小堀切が穿たれている。その西側には広大な三ノ郭が広がっている。三ノ郭は、南端に一段高い土壇があり、大型の櫓台か建物があったのだろう。そこから北に向かって段が付いて低くなるが、中段の平場が最も広い。その西側には帯曲輪が築かれ、一部は横堀となっている。三ノ郭の北東尾根には北東曲輪群が続いている。横矢クランクを持った堀切の先に、堀切沿いに土塁を築いた4郭(以下、曲輪の表記は『境目の山城と館 上野編』の記載に従う)があり、更にその先に長い堀切で分断されて5郭が置かれている。しかしこの辺は竹薮がひどくて踏査が困難である。5郭の先にも6郭があるらしいが、進入困難で未確認である。戻って三ノ郭の背後には小堀切を介して二ノ郭が広がっている。二ノ郭の北尾根にも北曲輪群が築かれている。この北曲輪群もやはり堀切で曲輪間を分断しており、2つの曲輪が置かれ、その先は幅広の自然地形の尾根になっているが、堀切らしい溝も見られる。二ノ郭は、内部が南北2段に分かれ、東辺に幅広の大きな土壇、西辺にも土塁が築かれている。西辺の土塁は起伏があり、中央が盛り上がって物見台状になり、そのまま主郭まで繋がっている。主郭も広く、二ノ郭とは切岸だけで区画されている。後部に大型の土塁を築いており、特に東辺の土塁は高くなっていて、櫓台があったのだろう。この大土塁の南東に尾根が続いており、堀切の先に2つの物見台が置かれ、特に南端のものは眺望に優れている。一方、主郭の南西に搦手虎口と小郭があり、その先は御岳山に通じている。御岳山も城域で、尾根道には2本の堀切と数段の腰曲輪、頂部には物見の平場があり、北側に腰曲輪が見られる。
神成城は、横矢クランクの堀切も含めて全ての堀切はいずれも小さく、縄張りの技巧面でもそれほど目立った所はないが、何より曲輪が広く、かなりの城兵を籠めることができる城である。殊に大型の櫓台・土塁が出色で、見応えがある。城の主要部もきれいに整備されており、遺構が見やすいのも好ましい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.247933/138.834786/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
神成城は、小幡氏が宮崎城の要害城(詰城)として築いたと推測されている。歴史不明であるが、宮崎城と一体として機能していたとすれば、宮崎城の歴史がそのまま神成城の歴史ということになるだろう。徳川家康が関東に入部した際に、奥平昌信が宮崎城に入城したが、その時神成城も改修を受けた可能性を『境目の山城と館 上野編』で指摘している。
神成城は、神農原の北に東西に連なる山地の一角の、270mの山上に築かれている。宮崎城の尾根続きにあり、西中学校の裏から神成山ハイキングコースが整備されており、迷わず城まで行くことができる。かなり広い大型の山城で、どの曲輪も広大である。宮崎城の裏から山道を進むと、見晴台を経由して城域最東端の出曲輪に至る。この出曲輪は、前面に峠道が通っており、堀切状になっている。また曲輪の南東角に土壇が築かれており、櫓台があったと考えられる。その先は自然地形の尾根が続いた後、東郭に至る。比較的小さな高台で、背後に小堀切が穿たれている。その西側には広大な三ノ郭が広がっている。三ノ郭は、南端に一段高い土壇があり、大型の櫓台か建物があったのだろう。そこから北に向かって段が付いて低くなるが、中段の平場が最も広い。その西側には帯曲輪が築かれ、一部は横堀となっている。三ノ郭の北東尾根には北東曲輪群が続いている。横矢クランクを持った堀切の先に、堀切沿いに土塁を築いた4郭(以下、曲輪の表記は『境目の山城と館 上野編』の記載に従う)があり、更にその先に長い堀切で分断されて5郭が置かれている。しかしこの辺は竹薮がひどくて踏査が困難である。5郭の先にも6郭があるらしいが、進入困難で未確認である。戻って三ノ郭の背後には小堀切を介して二ノ郭が広がっている。二ノ郭の北尾根にも北曲輪群が築かれている。この北曲輪群もやはり堀切で曲輪間を分断しており、2つの曲輪が置かれ、その先は幅広の自然地形の尾根になっているが、堀切らしい溝も見られる。二ノ郭は、内部が南北2段に分かれ、東辺に幅広の大きな土壇、西辺にも土塁が築かれている。西辺の土塁は起伏があり、中央が盛り上がって物見台状になり、そのまま主郭まで繋がっている。主郭も広く、二ノ郭とは切岸だけで区画されている。後部に大型の土塁を築いており、特に東辺の土塁は高くなっていて、櫓台があったのだろう。この大土塁の南東に尾根が続いており、堀切の先に2つの物見台が置かれ、特に南端のものは眺望に優れている。一方、主郭の南西に搦手虎口と小郭があり、その先は御岳山に通じている。御岳山も城域で、尾根道には2本の堀切と数段の腰曲輪、頂部には物見の平場があり、北側に腰曲輪が見られる。
神成城は、横矢クランクの堀切も含めて全ての堀切はいずれも小さく、縄張りの技巧面でもそれほど目立った所はないが、何より曲輪が広く、かなりの城兵を籠めることができる城である。殊に大型の櫓台・土塁が出色で、見応えがある。城の主要部もきれいに整備されており、遺構が見やすいのも好ましい。
二ノ郭下段と東の大土壇→
←北曲輪群の堀切お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.247933/138.834786/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
宮崎城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]
←背後の尾根の堀切・笹曲輪
宮崎城は、国峰城主小幡氏の支城である。本拠の国峰城に次ぐ重要支城であったと言われ、小幡氏は代々ここに子弟を置いて経済活動の中心としていたとされる。古書に「小幡氏の旗本宮崎和泉守の城」とあるが、宮崎氏も小幡氏の一族であったらしい。戦国後期の当主小幡信貞は、宮崎城に弟播磨守昌高を入れて守らせたと言う。1590年の小田原の役の際には小幡帯刀・庭屋左衛門佐がこの城を守り(『日本城郭大系』では守将を小幡吉秀・則信とする)、上杉景勝の別働隊を率いる藤田信吉・木戸玄斎・村上国清らの軍勢に攻められ落城したと言う。小田原北条氏の滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、宮崎城には奥平昌信を3万石で封じたが、1601年に美濃国加納に移封となると宮崎城は廃城となった。
尚、宮崎城の西の尾根続きに神成城があるが、『日本城郭大系』では神成城を宮崎城の要害城(詰城)とし、両城一体となって機能していた様に解している。
宮崎城は、鏑川北岸に広がる神農原の北の、比高50m程の段丘上に築かれている。現在は城域の大半が富岡市立西中学校の校地に変貌しており、その他の部分も耕地化で改変が激しく、遺構はほんの僅かしか残っていない。現地解説板等の縄張図によれば、扇形に広がった緩傾斜地に内堀・外堀を穿って主郭・二ノ郭を梯郭式に配し、主郭背後の尾根に笹曲輪を築いた縄張りとなっていたらしい。外堀は北部だけが道路と畑の段差となって名残を残し、北端に櫓台跡とされる小さな土壇が残っているだけである。また主郭背後の尾根には、笹曲輪を挟む2本の堀切が残っている。主郭後部には現在体育館が建ち、校地より高台となっているので、往時の地形をそのまま利用したのかとも思ったが、昭和40年代の航空写真をみると、主郭内に段差は確認できず、造成の時に改変されてものの様である。おそらく校地の土採りをして、他の造成地に転用したのだろう。従って、校地の部分の遺構は地下のものも消滅したと考えられる。昭和40年代でも既に城内全域が耕地化され、堀跡が畑の形としてしか残っていないほどなので、遺構がほとんど消え失せてしまったのも致し方のないところであろうか。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.248522/138.840795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
宮崎城は、国峰城主小幡氏の支城である。本拠の国峰城に次ぐ重要支城であったと言われ、小幡氏は代々ここに子弟を置いて経済活動の中心としていたとされる。古書に「小幡氏の旗本宮崎和泉守の城」とあるが、宮崎氏も小幡氏の一族であったらしい。戦国後期の当主小幡信貞は、宮崎城に弟播磨守昌高を入れて守らせたと言う。1590年の小田原の役の際には小幡帯刀・庭屋左衛門佐がこの城を守り(『日本城郭大系』では守将を小幡吉秀・則信とする)、上杉景勝の別働隊を率いる藤田信吉・木戸玄斎・村上国清らの軍勢に攻められ落城したと言う。小田原北条氏の滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、宮崎城には奥平昌信を3万石で封じたが、1601年に美濃国加納に移封となると宮崎城は廃城となった。
尚、宮崎城の西の尾根続きに神成城があるが、『日本城郭大系』では神成城を宮崎城の要害城(詰城)とし、両城一体となって機能していた様に解している。
宮崎城は、鏑川北岸に広がる神農原の北の、比高50m程の段丘上に築かれている。現在は城域の大半が富岡市立西中学校の校地に変貌しており、その他の部分も耕地化で改変が激しく、遺構はほんの僅かしか残っていない。現地解説板等の縄張図によれば、扇形に広がった緩傾斜地に内堀・外堀を穿って主郭・二ノ郭を梯郭式に配し、主郭背後の尾根に笹曲輪を築いた縄張りとなっていたらしい。外堀は北部だけが道路と畑の段差となって名残を残し、北端に櫓台跡とされる小さな土壇が残っているだけである。また主郭背後の尾根には、笹曲輪を挟む2本の堀切が残っている。主郭後部には現在体育館が建ち、校地より高台となっているので、往時の地形をそのまま利用したのかとも思ったが、昭和40年代の航空写真をみると、主郭内に段差は確認できず、造成の時に改変されてものの様である。おそらく校地の土採りをして、他の造成地に転用したのだろう。従って、校地の部分の遺構は地下のものも消滅したと考えられる。昭和40年代でも既に城内全域が耕地化され、堀跡が畑の形としてしか残っていないほどなので、遺構がほとんど消え失せてしまったのも致し方のないところであろうか。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.248522/138.840795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
岩染城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]
←二ノ郭から見た主郭切岸
岩染城は、歴史不詳の城である。この地域は国峰城を本拠とした小幡氏の勢力圏にあり、小幡氏の支城であった可能性がある。
岩染城は、300mの城山に築かれている。東側は谷戸に面しており比高は70m程になるが、西側には広い緩斜面の高台が広がっており(現在は一面の耕作地)、こちらからだと比高はわずか30~40m程しかない。従って西側からならば、道もあるので訪城も容易である。堀底道と思われる山道を西から登っていくと、尾根上に北の城側に登っていく道があり、それを入ればもう城域である。岩染城は、山頂の主郭を中心に、周囲に腰曲輪(実質的な二ノ郭であろう)を廻らし、北と南の尾根に曲輪を連ねた簡素な縄張りとなっている。主郭は綺麗に削平され、周囲を8m程の切岸で囲んでいる。後部に小さな土塁があり、虎口脇には石積みが残っている。主郭の北東と南西部には片堀切状の空堀が穿たれている。周囲の二ノ郭は北西部にだけ曲輪間の僅かな段差が設けられている。主郭の北東には三ノ郭があり、その先は堀切で分断され、北尾根の曲輪が続いているが、削平が甘く自然地形に近いので、どこまでが城域だったのかは判断が難しい。一方、南尾根にも細長い曲輪があり、途中を堀切で分断している。岩染城は、それほど技巧的な縄張りではないが、よく整った形の城で、遺構がよく残っている。山内の手入れもされているので、薮もなく遺構が見やすいし歩きやすい。この地域の城としては断崖などの危険性もないので、お勧めである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.227416/138.861501/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
岩染城は、歴史不詳の城である。この地域は国峰城を本拠とした小幡氏の勢力圏にあり、小幡氏の支城であった可能性がある。
岩染城は、300mの城山に築かれている。東側は谷戸に面しており比高は70m程になるが、西側には広い緩斜面の高台が広がっており(現在は一面の耕作地)、こちらからだと比高はわずか30~40m程しかない。従って西側からならば、道もあるので訪城も容易である。堀底道と思われる山道を西から登っていくと、尾根上に北の城側に登っていく道があり、それを入ればもう城域である。岩染城は、山頂の主郭を中心に、周囲に腰曲輪(実質的な二ノ郭であろう)を廻らし、北と南の尾根に曲輪を連ねた簡素な縄張りとなっている。主郭は綺麗に削平され、周囲を8m程の切岸で囲んでいる。後部に小さな土塁があり、虎口脇には石積みが残っている。主郭の北東と南西部には片堀切状の空堀が穿たれている。周囲の二ノ郭は北西部にだけ曲輪間の僅かな段差が設けられている。主郭の北東には三ノ郭があり、その先は堀切で分断され、北尾根の曲輪が続いているが、削平が甘く自然地形に近いので、どこまでが城域だったのかは判断が難しい。一方、南尾根にも細長い曲輪があり、途中を堀切で分断している。岩染城は、それほど技巧的な縄張りではないが、よく整った形の城で、遺構がよく残っている。山内の手入れもされているので、薮もなく遺構が見やすいし歩きやすい。この地域の城としては断崖などの危険性もないので、お勧めである。
主郭虎口の石積み→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.227416/138.861501/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
長根城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←神社背後の土塁上から見た空堀跡
長根城は、国峰城主小幡氏の庶流長根氏の居城である。長根氏はまた小河原氏とも称した。生島足島神社に納められた起請文には小河原馬之助重清(小幡信貞の弟とされる)の名が見える。長根衆と呼ばれ、元は関東管領山内上杉氏に属していたが、上杉氏没落後、西上州に進出した武田信玄に服属した。長根衆には、雅楽助、縫之助のほかに神保氏、茂原氏が属し、石倉城の戦い、長篠合戦、膳城素肌攻め等に出陣し、重清は膳城で討死している。武田氏滅亡後は一時的に織田信長の重臣滝川一益に降り、本能寺の変で信長の東国支配が崩壊すると、神流川合戦に出陣後、上州を押さえた北条氏に降った。1590年に北条氏が滅亡すると、長根城も廃城となった様だ。
長根城は、鏑川の南方に広がる段丘上の一角に築かれている。空堀で囲まれた横長の方形の主郭を台地先端付近に築き、その南から西にかけて二ノ郭、主郭の北東に笹曲輪を配置している。しかし耕地化・宅地化などで遺構の湮滅が進んでいる。主郭は南と西に堀跡の畑が残るが、消えかかっている状態である。主郭の内部は畑と墓地になっている。主郭南西側に櫓台らしい土壇が2つ並んでいる。普通に考えれば虎口があったと思うのだが、主郭の大手虎口は櫓台より東に通っていたようなので、単に大手道への横矢掛かりの為に築かれたものらしい。二ノ郭は民家の敷地になっており入れず、遠目に土塁らしい遺構を眺めるだけである。笹曲輪は長根神社が鎮座し、空堀周囲の土塁が残っている。長根城は、全体的に入れない場所が多く、おまけに残存遺構も少なく、少々残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.248885/138.965764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
長根城は、国峰城主小幡氏の庶流長根氏の居城である。長根氏はまた小河原氏とも称した。生島足島神社に納められた起請文には小河原馬之助重清(小幡信貞の弟とされる)の名が見える。長根衆と呼ばれ、元は関東管領山内上杉氏に属していたが、上杉氏没落後、西上州に進出した武田信玄に服属した。長根衆には、雅楽助、縫之助のほかに神保氏、茂原氏が属し、石倉城の戦い、長篠合戦、膳城素肌攻め等に出陣し、重清は膳城で討死している。武田氏滅亡後は一時的に織田信長の重臣滝川一益に降り、本能寺の変で信長の東国支配が崩壊すると、神流川合戦に出陣後、上州を押さえた北条氏に降った。1590年に北条氏が滅亡すると、長根城も廃城となった様だ。
長根城は、鏑川の南方に広がる段丘上の一角に築かれている。空堀で囲まれた横長の方形の主郭を台地先端付近に築き、その南から西にかけて二ノ郭、主郭の北東に笹曲輪を配置している。しかし耕地化・宅地化などで遺構の湮滅が進んでいる。主郭は南と西に堀跡の畑が残るが、消えかかっている状態である。主郭の内部は畑と墓地になっている。主郭南西側に櫓台らしい土壇が2つ並んでいる。普通に考えれば虎口があったと思うのだが、主郭の大手虎口は櫓台より東に通っていたようなので、単に大手道への横矢掛かりの為に築かれたものらしい。二ノ郭は民家の敷地になっており入れず、遠目に土塁らしい遺構を眺めるだけである。笹曲輪は長根神社が鎮座し、空堀周囲の土塁が残っている。長根城は、全体的に入れない場所が多く、おまけに残存遺構も少なく、少々残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.248885/138.965764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
戦国期の城と地域―甲斐武田氏領国にみる城館 (中世史研究叢書)
- 作者: 山下 孝司
- 出版社/メーカー: 岩田書院
- 発売日: 2014/07
- メディア: 単行本
神保館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←北側の土塁と空堀
神保館は、辛科神社の神官であった神保氏の居館である。戦国時代に神保昌光が居住したと伝えられ、武田信玄が西上州を制圧すると、神保氏は武田氏に従った。なお神保と言えば、越中の守護代となった神保氏が有名であるが、その本貫地がこの上州の地であった。神保氏は鎌倉時代に足利一門の畠山氏に仕えるようになり、室町時代に足利尊氏が将軍となって一門が大きく飛躍すると、畠山氏は越中の守護を兼帯し、神保氏が越中に入部する契機となった。それに比べると、本貫地に残った神保氏はささやかな勢力だった様だ。
神保館は、辛科神社の北東にあったとされる。神官なので、神社の隣に屋敷を構えたのは当然といえば当然である。周りよりやや高くなった微高地に位置し、現在は民家や畑となっていて、遺構の残存状況は悪い。北側とソーラーパネルが並べられた北東側に空堀らしき跡が見られる。特に北側のものは土塁も明瞭で、一部は二重空堀となっていたようにも見受けられるが、改変の可能性もありはっきりしない。いずれにしても、ここに屋敷を構えたにしてもそれは神官の職務の為に居たのであって、有事の際にはより要害性の高い神保植松城に立て籠もったものと推測される。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.243096/138.967652/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
神保館は、辛科神社の神官であった神保氏の居館である。戦国時代に神保昌光が居住したと伝えられ、武田信玄が西上州を制圧すると、神保氏は武田氏に従った。なお神保と言えば、越中の守護代となった神保氏が有名であるが、その本貫地がこの上州の地であった。神保氏は鎌倉時代に足利一門の畠山氏に仕えるようになり、室町時代に足利尊氏が将軍となって一門が大きく飛躍すると、畠山氏は越中の守護を兼帯し、神保氏が越中に入部する契機となった。それに比べると、本貫地に残った神保氏はささやかな勢力だった様だ。
神保館は、辛科神社の北東にあったとされる。神官なので、神社の隣に屋敷を構えたのは当然といえば当然である。周りよりやや高くなった微高地に位置し、現在は民家や畑となっていて、遺構の残存状況は悪い。北側とソーラーパネルが並べられた北東側に空堀らしき跡が見られる。特に北側のものは土塁も明瞭で、一部は二重空堀となっていたようにも見受けられるが、改変の可能性もありはっきりしない。いずれにしても、ここに屋敷を構えたにしてもそれは神官の職務の為に居たのであって、有事の際にはより要害性の高い神保植松城に立て籠もったものと推測される。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.243096/138.967652/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
神保植松城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←南端の空堀跡と土塁
神保植松城は、辛科神社の神官であり神保館主であった神保氏の城であったと推測されている。神保館と同時期に並立していたのか、それともより要害性の高い神保植松城に居城を移していたのかは、わかっていない。
神保植松城は、大沢川西岸の段丘の東端に築かれている。城の中心部は東西に上信越道が貫通しており大きく破壊されているが、北部と南部の遺構が残っている。北部は何段かの曲輪群が築かれ、西側に空堀を築いていたようだが、車道建設で改変され、残った部分も初春でも薮が酷くて確認が困難である。辛うじて西側の腰曲輪があるのがわかる程度である。一方、南部の遺構は、南外周の空堀と土塁がはっきりと残存している。往時は、城の中心に東西に2郭が並び、更にその北に横長の曲輪があって、3つの曲輪で中心部を構成していたらしいが、昭和30年代の航空写真でも既に耕地化で堀は埋められ、曲輪の形は辛うじて畑の形に名残を残すだけである。高速道建設で破壊されてしまったのは残念であるが、消滅部以外は遺構が思ったより良く残っている。折角の遺構なので、せめて解説板ぐらい欲しいところである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.240864/138.975935/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
神保植松城は、辛科神社の神官であり神保館主であった神保氏の城であったと推測されている。神保館と同時期に並立していたのか、それともより要害性の高い神保植松城に居城を移していたのかは、わかっていない。
神保植松城は、大沢川西岸の段丘の東端に築かれている。城の中心部は東西に上信越道が貫通しており大きく破壊されているが、北部と南部の遺構が残っている。北部は何段かの曲輪群が築かれ、西側に空堀を築いていたようだが、車道建設で改変され、残った部分も初春でも薮が酷くて確認が困難である。辛うじて西側の腰曲輪があるのがわかる程度である。一方、南部の遺構は、南外周の空堀と土塁がはっきりと残存している。往時は、城の中心に東西に2郭が並び、更にその北に横長の曲輪があって、3つの曲輪で中心部を構成していたらしいが、昭和30年代の航空写真でも既に耕地化で堀は埋められ、曲輪の形は辛うじて畑の形に名残を残すだけである。高速道建設で破壊されてしまったのは残念であるが、消滅部以外は遺構が思ったより良く残っている。折角の遺構なので、せめて解説板ぐらい欲しいところである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.240864/138.975935/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
多胡館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←北辺の土塁跡
多胡館は、木曽義仲の父、源義賢が一時居館としていたとされている。義賢は、平安末期の源氏の棟梁、六条判官源為義の次男で、近衛天皇が皇太子だった頃(1139~41年)、警護役であった帯刀の長官であったとされる。その後、多胡館に住んだらしい。後に武蔵国大蔵館に居館を移したが、1155年に甥の悪源太義平(源義朝の長子)に大蔵館を急襲されて討たれた(大蔵合戦)。これらの伝承からすると、義賢が多胡館に住んだのは1140年代から50年代にかけてと考えられる。しかし近年の発掘調査の結果では、堀から1108年の浅間山噴火のものと見られる軽石層が見つかっているので、噴火以前から館が存在していたことが確認されている。以前からあった土豪の館に義賢が入ったものだろうか?その辺りの詳細は不明である。
多胡館は、大沢川と小河川で挟まれた多胡丘陵の平坦地に築かれている。一辺約110mの正方形に近い形であるが、北西部が斜めにカットされた様な形状をしている。宅地化が進んでいるが、北辺から北西辺にかけての土塁と堀だけが残っていて、その他は湮滅している。市の指定史跡となっており、解説板も建てられているが、北側虎口(搦手とされる)付近の北辺の土塁の一部がよく分かるだけで、そこより西側の遺構は、雑草が少ない4月でも薮に埋もれて確認が困難である。堀も辛うじて分かる程度で、かなり埋まってしまっている様だ。指定史跡にしては残存状況が悪く、しかも民家の真裏なので(郭内は民家)不審者と間違われないよう気を遣うし、少々残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.245900/138.986599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
多胡館は、木曽義仲の父、源義賢が一時居館としていたとされている。義賢は、平安末期の源氏の棟梁、六条判官源為義の次男で、近衛天皇が皇太子だった頃(1139~41年)、警護役であった帯刀の長官であったとされる。その後、多胡館に住んだらしい。後に武蔵国大蔵館に居館を移したが、1155年に甥の悪源太義平(源義朝の長子)に大蔵館を急襲されて討たれた(大蔵合戦)。これらの伝承からすると、義賢が多胡館に住んだのは1140年代から50年代にかけてと考えられる。しかし近年の発掘調査の結果では、堀から1108年の浅間山噴火のものと見られる軽石層が見つかっているので、噴火以前から館が存在していたことが確認されている。以前からあった土豪の館に義賢が入ったものだろうか?その辺りの詳細は不明である。
多胡館は、大沢川と小河川で挟まれた多胡丘陵の平坦地に築かれている。一辺約110mの正方形に近い形であるが、北西部が斜めにカットされた様な形状をしている。宅地化が進んでいるが、北辺から北西辺にかけての土塁と堀だけが残っていて、その他は湮滅している。市の指定史跡となっており、解説板も建てられているが、北側虎口(搦手とされる)付近の北辺の土塁の一部がよく分かるだけで、そこより西側の遺構は、雑草が少ない4月でも薮に埋もれて確認が困難である。堀も辛うじて分かる程度で、かなり埋まってしまっている様だ。指定史跡にしては残存状況が悪く、しかも民家の真裏なので(郭内は民家)不審者と間違われないよう気を遣うし、少々残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.245900/138.986599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館