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宮崎城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3807.JPG←背後の尾根の堀切・笹曲輪
 宮崎城は、国峰城主小幡氏の支城である。本拠の国峰城に次ぐ重要支城であったと言われ、小幡氏は代々ここに子弟を置いて経済活動の中心としていたとされる。古書に「小幡氏の旗本宮崎和泉守の城」とあるが、宮崎氏も小幡氏の一族であったらしい。戦国後期の当主小幡信貞は、宮崎城に弟播磨守昌高を入れて守らせたと言う。1590年の小田原の役の際には小幡帯刀・庭屋左衛門佐がこの城を守り(『日本城郭大系』では守将を小幡吉秀・則信とする)、上杉景勝の別働隊を率いる藤田信吉・木戸玄斎・村上国清らの軍勢に攻められ落城したと言う。小田原北条氏の滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、宮崎城には奥平昌信を3万石で封じたが、1601年に美濃国加納に移封となると宮崎城は廃城となった。
 尚、宮崎城の西の尾根続きに神成城があるが、『日本城郭大系』では神成城を宮崎城の要害城(詰城)とし、両城一体となって機能していた様に解している。

 宮崎城は、鏑川北岸に広がる神農原の北の、比高50m程の段丘上に築かれている。現在は城域の大半が富岡市立西中学校の校地に変貌しており、その他の部分も耕地化で改変が激しく、遺構はほんの僅かしか残っていない。現地解説板等の縄張図によれば、扇形に広がった緩傾斜地に内堀・外堀を穿って主郭・二ノ郭を梯郭式に配し、主郭背後の尾根に笹曲輪を築いた縄張りとなっていたらしい。外堀は北部だけが道路と畑の段差となって名残を残し、北端に櫓台跡とされる小さな土壇が残っているだけである。また主郭背後の尾根には、笹曲輪を挟む2本の堀切が残っている。主郭後部には現在体育館が建ち、校地より高台となっているので、往時の地形をそのまま利用したのかとも思ったが、昭和40年代の航空写真をみると、主郭内に段差は確認できず、造成の時に改変されてものの様である。おそらく校地の土採りをして、他の造成地に転用したのだろう。従って、校地の部分の遺構は地下のものも消滅したと考えられる。昭和40年代でも既に城内全域が耕地化され、堀跡が畑の形としてしか残っていないほどなので、遺構がほとんど消え失せてしまったのも致し方のないところであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.248522/138.840795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世崖端城
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