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雁田城(長野県小布施町) [古城めぐり(長野)]

IMG_4550.JPG←小城の多段石垣
 雁田城は、苅田城とも表記され、高梨氏が築いた城砦群の一つと考えられている。正確な歴史は不明で、一説には古代アイヌの築いたチャシであるとか、3~4世紀頃(古墳時代)の大和朝廷の東征時の柵から始まったとも言われる。中世には、鎌倉時代に苅田式部太夫繁雅の居城であったとする伝承や、室町時代に荻野備後守常倫が城主であったと言う伝承も残るが、裏付けられる史料がなく苅田氏・荻野氏の実在は不明である。比較的史実に近いと思われるのは高梨氏との関係で、1489年以降この地域は高梨氏の支配下となり、1561年に武田信玄が高井地方を支配下に置くまでの間、高梨氏による支配が続いた。その間、雁田城・二十端城滝ノ入城がこの山塊にあり、高梨氏の支配地域の南部における防衛線であったと推測されている。

 雁田城は、その根古屋があったと推測されている岩松院の背後にそびえる標高530m、比高190m程の山上に築かれている。山上の大城と西端のピークに築かれた小城の2つの城で構成されている。岩松院の北側の高台からハイキングコースが整備されており、そこからだと比高わずか40m程で小城に至る。
 小城はほぼ単郭の小城砦であるが、主郭周囲には石垣多数築かれている。ほぼ方形の主郭を取り巻くように石垣が築かれ、南西には主郭に登る石段も見られる。石垣は、高石垣を築く石積み技術がなかったものと見え、南側では低いものが4段築かれている。そのせいもあって、石垣の規模は川中島城砦群の霞城鷲尾城ほどではない。主郭背後には小さな土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれているが、その堀切に沿っても主郭側に石垣が積まれている。また、主郭の北西尾根にも堀切と小郭らしいものがあるが、あまり明瞭ではない。
 一方、小城からかなり急峻な東の尾根を登っていくと、何段かの小郭を経て大城に至る。大城は東西に伸びる尾根に曲輪を連ね、堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。頂部に長方形の主郭を置き、その前面に1.5m程の段差でニノ郭を設け、その前面には堀切を穿って大手の尾根を分断している。主郭背後には小城と同じく土塁が築かれ、背後には深さ4~5mの堀切が穿たれている。その東側に三ノ郭があり、後部にわずかに石塁が築かれている。三ノ郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれている。ただ三重とは言っても、しっかり穿たれているのは内堀のみで、中堀・外堀は浅いので、実態を見ると畝状阻塞に近い。その東の4郭にも、中程に小堀切が穿たれている。更に背後に堀切があって5郭に至り、城域が終わっている。大城にも石垣はあるが部分的で、主郭の北東部や主郭の前面に小規模なものがあるだけである。
 雁田城は、大城と小城でかなり様相を異にしており、築城思想やそれぞれの役割、築城時期の違いなどを想起させる。
大城の畝状阻塞(三重堀切)→IMG_4633.JPG
IMG_4622.JPG←大城主郭の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.698705/138.338020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【小城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.699789/138.334994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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