替佐城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]
←堀切から落ちる大竪堀
替佐城は、1564年頃に武田氏によって築かれたと推測される城である。川中島をめぐる甲越両軍の抗争の中で、上杉方の拠点飯山城に対して、壁田城と共に武田方の最前線の拠点として築かれたと考えられている。城主は壁田城と共に小幡上総介であったと言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。尚、千曲川対岸にそびえる壁田城との連絡は、びわ島地籍からの渡し船であったと考えられている。
替佐城は、標高460m、比高110m程の丘陵上に築かれた城である。城内は公園化されているので、主要な部分の遺構は見やすいが、城の背後の北西尾根の搦手筋や斜面は未整備となっている。また今年の春は雑草が伸びるのが早かったので、5月初旬の長野なのに、もう薮で遺構が見辛くなり始めていた。大きく3つの曲輪群から成り、北西から順に主郭群・ニノ郭群・三ノ郭群が連なっている。それぞれ数段の腰曲輪が付随し、曲輪群の間は堀切で分断されている。北西の搦手には合計3本の比較的大きな堀切が穿たれその間に櫓台を備えた小郭を置いている。主郭から北西尾根にかけての北斜面には、畝状竪堀や横堀が穿たれ、また竪堀と横堀が交錯するなど、厳重に防御を固めている。また搦手最後の堀切には土橋が架かり、いざという時の退路確保にも余念がない。また三ノ郭群の南斜面には、やはり竪堀と横堀がクロスして構築され、ここの横堀では山上にもかかわらず水堀となっている。この他、ニノ郭群から北東に張り出した尾根にも堀切を挟んで小郭があり、その東側下方にも腰曲輪群が築かれている。かなり手の混んだ造りの城で、全体的にちょっと薮っていて残念だったが、もっと薮の少ない時期に行けば、もっとその技巧的な構造を堪能できるだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771171/138.314888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
替佐城は、1564年頃に武田氏によって築かれたと推測される城である。川中島をめぐる甲越両軍の抗争の中で、上杉方の拠点飯山城に対して、壁田城と共に武田方の最前線の拠点として築かれたと考えられている。城主は壁田城と共に小幡上総介であったと言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。尚、千曲川対岸にそびえる壁田城との連絡は、びわ島地籍からの渡し船であったと考えられている。
替佐城は、標高460m、比高110m程の丘陵上に築かれた城である。城内は公園化されているので、主要な部分の遺構は見やすいが、城の背後の北西尾根の搦手筋や斜面は未整備となっている。また今年の春は雑草が伸びるのが早かったので、5月初旬の長野なのに、もう薮で遺構が見辛くなり始めていた。大きく3つの曲輪群から成り、北西から順に主郭群・ニノ郭群・三ノ郭群が連なっている。それぞれ数段の腰曲輪が付随し、曲輪群の間は堀切で分断されている。北西の搦手には合計3本の比較的大きな堀切が穿たれその間に櫓台を備えた小郭を置いている。主郭から北西尾根にかけての北斜面には、畝状竪堀や横堀が穿たれ、また竪堀と横堀が交錯するなど、厳重に防御を固めている。また搦手最後の堀切には土橋が架かり、いざという時の退路確保にも余念がない。また三ノ郭群の南斜面には、やはり竪堀と横堀がクロスして構築され、ここの横堀では山上にもかかわらず水堀となっている。この他、ニノ郭群から北東に張り出した尾根にも堀切を挟んで小郭があり、その東側下方にも腰曲輪群が築かれている。かなり手の混んだ造りの城で、全体的にちょっと薮っていて残念だったが、もっと薮の少ない時期に行けば、もっとその技巧的な構造を堪能できるだろう。
北斜面の畝状竪堀→
←二ノ郭から見た堀切と主郭群南斜面の水堀→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771171/138.314888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0