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ホイホイ地蔵・十三塚(茨城県稲敷市) [その他の史跡巡り]

IMG_9446.JPG←ホイホイ地蔵
 ホイホイ地蔵と十三塚は、南北朝時代に常陸に下った南朝の重臣北畠親房に関連する史跡である。建武の新政が瓦解し、吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、1338年に主戦力であった新田義貞、北畠顕家(親房の嫡男)を戦場で失い、勢力再建が急務となった。そこで閏7月に自らの皇子である義良親王・宗良親王・懐良親王を伊勢を経由して、それぞれ奥州・遠州・九州の各地の南朝勢力の元に派遣し、勢力挽回を企図した。この内、義良には親房とその次男顕信を付けて海路奥州に下したが、9月に途中の遠州灘で暴風に遭い、兵船は四散、義良は伊勢に吹き戻されて、翌年吉野に戻って皇太子となった(後の後村上天皇)。一方、親房は常陸に漂着し、南朝方の地頭東条氏に迎えられて神宮寺城に入り、ここを東国経営の拠点として活動を開始した。しかし間もなく、北朝方の武家である佐竹義篤(常陸守護)・大掾高幹・烟田時幹・鹿島幹寛・宮崎幹顕らの軍勢に攻められ、10月5日あえなく落城した。親房は阿波崎城に逃れたがこれも陥とされ、更に小田城へと落ちていった。
 この間、近郷の農民を督励し、築城・兵糧等の役務に尽力した近郷の名主13名は、佐竹義篤らによってその罪を問われて斬首され、神宮寺原の露と消えた。しかし一人阿波崎村の名主根本六左衛門は、偶々他出していて難を逃れたが、帰宅し盟友らの死を知るや悲憤に絶えず、小野川畔に「ホーイ、ホーイ」と去りゆく敵将を呼び返し、自ら進んで斬られ、盟友らの後を追ったと言う。その霊を弔うために建てられたのが、ホイホイ地蔵と呼ばれる地蔵尊だと言われている。

 またこの事件から43年後、南北朝末期の1381年に椎塚の善吉寺の但阿和尚らによって塚を設けて供養したのが、十三塚である。実際には、一人残ってしまい後に自ら斬られた根本六左衛門も祀られたため、塚は14基ある。現地解説板に今日伝えられる名主の名は次の通り。

  神宮寺村  根本三郎兵衛     四箇村  後藤喜左衛門
  阿波村   平山市左衛門     飯出村  根本助之丞
  高田村   岡澤庄左衛門     須賀津村 高城嘉兵衛
  椎塚村   宮本平右衛門     三次村  糸賀市兵衛
  釜井村   岩瀬源左衛門     下馬渡村 坂本茂兵衛
  伊佐部村  鳥羽利兵衛      浮島村  高塚勘左衛門
  幸田村   飯塚左馬之助     阿波崎村 根本六左衛門

 ホイホイ地蔵は、霞ヶ浦に臨む古渡橋の南のたもとの東側にある民家の入口付近にある。表の道路から100m程奥にあるので、一瞬入っていくのがためらわれる場所であるが、地蔵堂には解説板もあるので、史跡として保護されている。
 十三塚は、神宮寺城の真北460m程の交差点脇に大きな石碑が立ち、その脇道沿いに14基の墓(塚)が一直線に祀られている。墓石は新しいものなので、再建されたものなのだろう。
 何故かはよくわからないのだが、当時の関東では常陸国が南朝方の勢力が非常に根強く残っていた。建武期には楠木正成の一族、楠木正家が派遣されて瓜連城を拠点として東国経営を行っていたが、わざわざ河内の楠木氏を派遣していることから、後醍醐政権にとって常陸が重要視されていたことを物語る。また小田氏が中心となって南朝方に与する武家も存在していた。そのため親房も、東国の南朝再建のために常陸を目指したのである。こうした背景から、元々この地の村民にも南朝に対するシンパシーが強かったことが想像でき、ホイホイ地蔵や十三塚といった話が語り継がれているのだろう。地域の貴重な歴史の一コマである。
十三塚→IMG_9455.JPG

 場所:【ホイホイ地蔵】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.973943/140.350857/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【十三塚】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.959789/140.369139/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))

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